◎サルトルとボーヴォワール 哲学と愛◎
2017/02/08
もうかなり時が経ってしまったけれど、ある平日の午後、渋谷のユーロスペースに『サルトルとボーヴォワール』を観に出かけた。
サルトルとボーヴォワールについては、ずっと前に青春出版社から出した恋愛本『いい男と出会えていないあなたへ』で、ずいぶん力を入れて書いた。(この本には、他にピアフと、与謝野晶子にエナジーを注いでいる)。
その時点では、私はサルトルとボーヴォワールの「必然の愛」「偶然の愛」の思想に共鳴していた。
これはサルトルの提案で、ようするに、僕たちの愛は「必然」、だけど二人とも作家なのだから「偶然の愛」(これは浮気ではなく、恋愛)も知る必要がある。そして偶然の愛についてお互いに報告し合おう、というもの。
それからときが経ち、私はアナイス・ニンの虜になった。アナイスと同化してしまい、すこしおかしくなるくらいに、……なってしまったときもあった。
そしてアナイスはボーヴォワールの天敵。
みんなから「あなたの代表作!」となぜか決めつけられる『軽井沢夫人』のラストでも書いたけれど、ボーヴォワールは「アナイスのあの女らしさの概念にはめちゃくちゃ頭にくる!」と怒っている。
それも無理はなく、ボーヴォワールは『第二の性』で、「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」とフェミニズムの思想をあらわしている。
一方アナイスは「私はやっぱり人間である前に女なのよねえ」という人。
ふたりは正反対。
アナイスに同化した私はボーヴォワールに興味を失っていった。
けれどそれからまた時が経ち、私は『サガンという生き方』を書いた。
そこでエナジーを注いだエピソードの一つが、老年のサルトルとの友情だった。
サガンを通じてまた、サルトル、そしてボーヴォワールに近づいた。
そして、仕事の関係で、再びサルトルとボーヴォワールについて調べる必要があり、そんなときにちょうど映画が公開された。
すごいタイミングだと思った。
けれど、映画はとても物足りなかった。
二人の運命的な出逢いの、ごく初期しか描かれていなかった。
私はいつも思う、「その後」が知りたい、と。
だからエンドクレジットが流れ始めたとき、物足りないーーー! と大きな声で言い、足をばたばたしたくなるほどに、いらついた。
ほんとに、物足りなかった。
ふたりはサルトルが死ぬまで「ふたりでひとり」という関係性を維持した。
けれど、その間、互いに何度も恋愛をした。
そのあたりのことをもっと描いて欲しかった。
自由恋愛という理想と、嫉妬独占欲という現実を、描いて欲しかった。
作家なのだからと嫉妬独占欲を自制することの苦しさを、描いて欲しかった。
いま、恋愛についての本を書いている関係で恋愛について24時間ぐるぐると考えている。
年齢を重ねれば、若いときには見えなかったものが見えてくる。
当然、恋愛についての意見だって変容してくる。
そしてぐるぐる考えるなかで、いつもアナイスが顔をのぞかせる。
これが邪魔。
以前に比べれば、アナイスともすこし距離がとれている。
でも、まだまだだ。
完全に彼女を客観視できたとき、彼女について書けるのだろうな。
それまで生きていて、ぜったいに、「私のアナイス」を書きたい。
アナイスの恋愛観を、わかりやすく魅力的に伝えたい。残したい。
そんなふうに思う、空気がおいしくない都会の朝。