■トリュフォーが愛しくて■
久しぶりに風邪などをひいてしまったわ、と外出中の娘に「パブロンゴールドA」と「ユンケルL」を買ってきて、とラインを送ったのが先週の月曜日。良くなったり悪くなったりを繰り返して、でも免疫力が落ちると、いろんなところに不具合が派生して、だめね。しくしく。
そんな火曜日の夕刻、編集者さんから、「ココ・シャネルの言葉」増刷の連絡が来て、ほっとする。喜びより安堵のほうが大きい。
いま、ふたつの原稿を同時進行している。先々週くらいは、一本、単発のエッセイの原稿があったからきつかった。それをなんとか仕上げて、ふたつに戻る。まったく別のテーマでの原稿なのだからそれほど混乱はしないだろうと思ったけれど違った。
一本の方を書いているときにはもう一本のほうが気になって仕方がない。夜眠る前にも、どちらの本のことを考えながら眠ろうか、なんて変なことを考えてしまう。
時間が惜しい。掃除をしたり食器を洗ったりするときにも、どちらの本のテーマの曲をかけようか悩む。まるでふたりの男と恋愛関係にあるみたいな状況。これはけっして喜ばしいことではない。私はやっぱりひとつのことに集中するほうが向いているみたい。
そんななか、資料として読んでいた映画監督フランソワ・トリュフォーに惹かれてしまって困っている。あまりにもいろんなことに共鳴して、次にゆけない。
だから、ここに心にとまったことを記して、次にゆこうと思う。
新しい本を手伝ってくれているお友だちがふたりいる。
彼らの存在に私は支えられて、どうにか進められているといった状況。
そのひとり、「よいこの映画時間」をこのサイトに連載してくれている「りきちゃん」と続けて「暗くなるまでこの恋を」「終電車」「隣の女」を観た。
「暗くなるまでこの恋を」と「終電車」はカトリーヌ・ドヌーヴ、「隣の女」はファニー・アルダン主演。どちらもトリュフォーの恋人。3本ともとてもよかった。「終電車」と「隣の女」ははじめてではなく何度目かの鑑賞だけれど、あらためて好きだと思った。でもいまは映画の内容はおいておいて。
トリュフォーと親しかった映画評論家、山田宏一の「トリュフォー、ある映画的人生」が素晴らしくて。
1982年に52歳で癌のため亡くなったトリュフォーというひとを愛情にあふれた視線で見つめ、描き出していて。そしてそこに描き出されたトリュフォーが愛しくて。
トリュフォーは名声も評価も得ていたけれど、最後の最後まで「自分を過信し、傲慢にうぬぼれることを心から恥じていた」ひとだった。ジャン=ポール・サルトルを敬愛していて、彼の言葉を引用しながらいつも言っていたという。
「自分をこの世に必要不可欠の存在であると信じて疑わない人間はみな、人でなし(サロー)だ」
さいきん、「あなた、自分を過信してはいませんか」と思ってしまうシーンをなぜか立て続けに目撃していて、自戒していたところだったから、この言葉は響いた。
あらゆることにおいて「不満」は「自己評価>他者評価」が原因のことが多い。不満を抱いたとき、自己評価に疑いをもつのではなく他者評価に疑いをもつひとを私は美しくないと思う。できればそうなりたくはないから注意しているつもり。
「不満」をもつことだってある。そんなとき自分自身をまず疑う。そして、それだけのことをしていないから、それだけの魅力がないから、よって、こういう結果なんだわ、と思う。その先どうするかは、状況による。つまり、他者が自分にとってどういう存在かによって、どうするか決める。
そんなことを思いながら読み進めれば、こんなくだりに出会う。
「作家は死ぬまで自分を疑いつづける。深く、執拗にーーたとえ同時代の人々の称賛を浴びても」(トリュフォー)
びっくりする。トリュフォーと同列に並ぼうなんて、まったく思ってはいないし、称賛を浴びるなんて経験もないんだけど、でもなにかしら、とっても小さいけれど共通するものはある、と思う。
こんなところも。
「トリュフォーの映画はあくまでも自分が生きた、あるいは「実際に目撃し、個人的に関わった」現実の人生の引用そのもの」と山田宏一は言う。そして、そこが同時代の映画人ゴダールとまったく異なるところなのだと比較する。ゴダールの映画は「芸術的な」引用なのだと。
そうか、だから私はトリュフォーの映画にこんなに共鳴して、ゴダールのは、すごいとは思うけれど共鳴はしないのか、と納得。
そして、トリュフォーは「愛なくしては生きていけない」ひとだった。
「愛のように傷つきやすい映画をトリュフォーは撮りつづけたのである。それはいつもひそやかな『告白のような』ものであり、自分の生き方をいちいち手さぐりでたしかめながら記録した『日記のような』もの」だった。
トリュフォーの人生を眺めて山田宏一は言う。
「自分を厳しく責めながら、怒りを忘れ、恨みを捨てて、すべてをゆるし、すべてを愛することのほうに自分の心情=信条を『転向』させ、『修正』していくトリュフォーの生きかたには、何かしら言いようのないせつなさが感じられる。たとえ五十二歳で癌で死ななかったとしても、それ以上長く生き続けることに耐えられなかったのではなかろうか」
ここにも私はとっても共鳴する。最後の部分、すでにトリュフォーより長生きしているところがぜんぜん違うけど。
デビュー作「大人は判ってくれない」からすべてのトリュフォー映画を観たくなって困る。
そういえば『逃避の名言集』にトリュフォーの映画「家庭」からの引用がある。
ーー家庭を出ずして、家庭を守れない
このブログにも2006年の記事が。このときからトリュフォーに共感していたんだわ。
……さて。未練たらたらだけど、次に進まなくては。またね、トリュフォー。