15.「真冬の女2人旅の終わりに」
2020/04/22
◇最終回◇
<最後の一日を過ごしたミラノ、ホテルのロビー。
改装中とかでソファに布がかぶせられ、ガムテープでとめられていた>
1996年の12月15日。
私は、アリタリア航空 便の狭いシートを三つ占領して横になっていた。
後ろの座席では、見目麗しき友人、佐和子が同じ様な恰好をしているはずだ。
軽い食事とともにワインの小瓶をそれぞれ一本空けてたので、二人ともかなり眠くなり、
機内が空いているのを、これ幸いと、横になることにしたのだった。
あと十時間もすれば、シンに会える。
今日は家で仕事をしているはずだから、
あの古いマンションの玄関を開ければ、懐かしい笑顔が私を迎えてくれるはずだった。
「このままだと、大切なものを失ってしまう」という、輪郭の曖昧な精神的危機感から思い立った旅行だったが、
日本に向かう機内で、私はなんともいえない、あたたかな充実感を感じていた。
私の、今回の旅行は、その時間や行程をみれば、ごく平凡なのだと思う。
何年もかけてアジアを放浪したり、未開の土地に乗り込んでいったりする、そういう人々に比べれば、本当に平凡すぎるほどだと思う。
けれど、暑さを感じる温度や、満腹感を感じる食事の量が、人それぞれで異なるように、私にとっては、この二週間の北イタリア・南フランスの旅行は非凡であり、重要な出来事なのだった。
機内で、私は思っていた。
この旅行が自分にとってどれほどのものだったのか、それが分かるのは、もっと先、何年か経ってのことだろうな。でもきっと、重要な二週間として、私の人生に刻まれるのではないだろうか。
今、あれから五年が経った今、これを書きながら、うんうん、その通りだったのだよ、と一人うなずいている。
いつだったか、そんな内容のことを知り合いの男性に話したところ
「ああ、いわゆる、自分探しの旅だったのですね」
と言われて、強烈な違和感を抱いたことがある。
自分探し。私の嫌いな言葉。
意味がよくわからないけど、そこから立ち上る匂いが好きになれない (話はそれるが、「癒やし」という言葉と、その匂いは似ている)。
旅行前、たしかに私は、色んな事に迷っていた。進むべき道を見失っていた。
私にとっての唯一の確かな存在であるはずの、シンに対して、思いきりしなだれかかることしかできない状態で、それも嫌だった。
なんとかしなくては、と思った。ずっと行きたいと思っていて、なかなか縁のなかった、北イタリアの湖水地方と、それから南フランスが頭に浮かんだ。
これって逃避なのかな、とちらっと思った。そして、逃避でもいいや、と思った。このままの状態でいるよりはマシだから・・・。
それでも、私には、この旅行はきっと私が今すべきことなのだ、という変に強い確信があった。
今なら、わかる。私は、「色んな事に迷っていた。進むべき道を見失っていた」状態であったけれど、実は、ぼんやりと、その方向性は見えていた。でも、現状維持の方がらくちんだから、それを認めることをどこかで避けていた。
私は、日常生活を離れたところに身を置くことによって、「現状」を客観視したかった。遠いところからそれを眺めることによって、自分がしてきた過去数年の実績など、取るに足らないものなのだ、と実感したかった。
それらを切り捨てて、違う方向に進むきっかけが、欲しかった。そういうきっかけは、人との出会い、映画、本などでも得られるものだ。
私の場合は、その時、それが旅行だったというだけだ。ミラノで修平さんに連れられてバルカモニカを訪れ、伊藤福紫さんや大木泉さんに会い、修平さんから現代美術についての考えを聞き、私は自分と彼らとの距離感を感じた。
絵を観ることが嫌いになったわけでは、もちろんない。
けれど、アートの裾野を広げようとか、アーティストをプロデュースするとか、そういうのは私がやらねばならない仕事ではないのだ、と感じた。これがわかったことは大きかった。
帰国したら、とりあえず、アートサロン時間旅行の活動を停止しよう、と思った。
雑誌のエッセイは? 絵をテーマに綴る、あのエッセイは?
続けようと思った。文章を書くということに変わりはない。いい作品を書くための修行の一つだと思えば苦にならないはずだ。
それと、なんと言っても、再確認したのは、シンの存在だった。
コクトーの結婚の間で感じた「ああ、私は結婚したかったのだ」という想いも、それと関係が深い。
何かに感動して、その感動を共有したい、と強く思う相手が、自分の結婚相手だという幸福を、私は、シン不在の旅行で、強く感じていたのだ。
そして、佐和子。この旅行を通じて、私は彼女を初めて、知った。
彼女の話は、いちいち、私の胸を打った。私はシンの感性をこよなく愛しているが、佐和子の感性も、同じくらい愛した。
異性にひとり、同性にひとり、こんな存在がいるなんて、なんて恵まれた人生だろう、と思う。ここで、再び、あの時の佐和子の話がどうのこうの、と繰り返すつもりはない。
ただ、1996年の12月、私が最も必要としていたひとは、佐和子だったのだと思う。
嬉しい偶然があり、私の突然の誘いに佐和子がのってくれたことの、めぐりあわせに、私は跪いて感謝したい気分だ。
ミラノで会ったアーティスト、オルタ湖のサビーナとリカルド、ブラーノ島で会ったレストランのオーナー、ヴァンスで出会ったマルチェロおじさん、コクトーの結婚の間、ミラノのロンダニーニのピエタ・・・。
今も目を閉じれば、くっきりとした映像が浮かぶ。
そして同時に佐和子の存在を感じる。佐和子のセリフのひとつひとつが、断片的に心に浮かぶ。
ちょっと告白させてもらえれば、私はこの歳になって、初めて「友」という言葉を理解したのだ。
佐和子とともに触れた、それらひとつひとつが、ひとりひとりの存在が、私の中で静かに静かに発酵し、やがて、極上のエキスとなって、私を豊かにしてくれるのだと、信じたい。
(完)
おまけ
毎回読んで下さった、奇特な方々へ。
2000年の1月から始め、今回の2001年3月でようやく終わりました。
色々なことがあった15ヶ月でした。
あったりまえのことですが、この連載は、佐和子さんのご協力なくしては、ぜんぜん成り立ちませんでした。
毎月、私の原稿に手を入れてくれたり、原稿を送ってくれたりして、ある回などは佐和子さんの文章がそのまま載っている箇所なんかもあります。共著といっていいくらいです。
ご本人は「わたしのことを褒めすぎだよ、よくないよ」と毎回言ってましたので、私もなるべく褒めすぎて気持ち悪くならないように、注意しつつ書いたつもりではありますが、正直に思うことはそのまま書いちゃいました。
本文でもしつこく書いているように、もちろん、5年前の2週間の旅行には、そりゃあ、深い意味がありました。
けれど、それ以上に「今、そのことを書く」という行為に、私は意味があったような気がしてならないのです。
佐和子とメールをやりとりして、長電話して、時にはお酒に酔いながら話しまくって、当時を思い起こし、それを文章化するということに、意味があったのだと思うのです。
そういうことをしている時、とっても「希望」と、それから「人生」を感じられたからです。
読んで下さって、時々、感想メールなんかもくださったりした、みなさん、本当にありがとうございました。
2001年3月 山口路子