1.「真冬の女2人旅にはワケがある」
2020/04/22
[アリタリア航空789便]
1996年の12月1日。
私はアリタリア航空789便の狭いシートでワインを飲んでいた。
隣りには私と同齢の見目麗しき友人、佐和子女史。いきなりワインの小瓶をぐい飲みしたからか、頬を赤らめてよく眠っている。その横顔に私は10日前の電話を思い出す。
「ねえ、唐突で申し訳ないんだけど、今すぐ北イタリアから南フランスあたりに旅行をしようよ」と私。
「え。そんな」
「行こうよ」
「・・・」
「行こう」
「・・・なんだか・・。なんだか怖いのだが、実は、予定していた旅行が昨日ポシャッタばかりで」
「どこに行くはずだったの?」
「・・・南フランス」と佐和子。
こういう巡り合わせは人生にあまり起こらないので、私の肌は少し粟立ってしまったのだった。
[行かなければ駄目になる。本気でそう思った]
そもそも、私はなぜ、旅行を思い立ち、いや、「旅立たなければいけない」とまで思いつめたのか。説明しようと思えば実に単純である。
私は、すべてのことに煮詰まってしまっていたのだ。 30歳。結婚して1年が経とうとしていた。彼との愛情生活は幸せだった(少なくとも私はそう信じていた)が、それ以外の部分がいけなかった。
「アートサロン時間旅行」に対する情熱の冷え、雑誌に寄稿しているアート・エッセイへの疲弊感、絵画展の企画に対する疑問などが私を惑わせていた。
そもそも私は「アート」が好きなのか?
魅せられているのか?
私は本当は何に価値を感じ、何を成したいのか・・・。
疲れていたのだとは思う。けれど、そんなことばかり鬱々と考え、考えすぎて頭痛に苦しみ、胃も痛くなり、そこから逃避するため、フランスの小説の世界に逃げ込む毎日だった。
それだけではない。私は「人と会うのがつまんない病」にもかかってしまっていた。
友人たちや仕事関係のひとたちと過ごす時間は、その瞬間はそれなりに楽しめてしまったりするのだが、冷静になった時感じる虚しさは相当のものだった。なんというか、そこで交わされる会話が薄っぺらく感じられて仕方がなかったのだ。次第に「おつきあい」から遠ざかっていった。
それでもある夜、パーティに招かれ、青山まででかけたのだが、今でもよく覚えている。
駅からの帰り道、白い月を見上げて、私は知らず知らずにつぶやいていたのだ。
「だから、なんだってのよ」と。
そのぼそっとした暗い音を自分の耳がとらえた時、私はぞっとした。
暗すぎる。
そしてその暗さは同居する彼に対してももちろん、気持ちの良いものであるはずがないのに、私はそれをコントロールすることができず、泣いたりわめいたりという夜を何度か繰り返していた。
ここから抜け出さなければ大事なものをなくしてしまう。 かなり真剣にそれを恐れた。 行かなければ駄目になる。本気でそう思った。
…と、こんなかんじで私は旅立ったわけだが、同行の佐和子も私に負けないほどの色んな想いを抱えていたのだった。 私たちの忘れがたくも深く楽しい旅が、始まった。
[踊り子になったミラノ]
で、第一日目 ミラノである。
なぜ、ミラノか?
実は私、「私は本当にアートが好きなのか?」なんて疑問を抱えながらも「どうせ旅行に行くのなら、モトをとってやる」と姑息にも考えていたのであった。
モトを取る。それはミラノ在住の日本人アーティストを取材して、雑誌に売り込もうというものだった。
ミラノには松山修平さんという画家の方がいて、私はすでに彼にアポイントをとり、作家の方々を紹介してもらえることになっていた。
ミラノは二度目だった。
それにしてもミラノという街は、この時の私にはあまり相性がよくなかったようだ。
東京にいるのと同じ感覚しか感じられなかった。つまり雑然としていて、埃っぽい。
私は学生の時に思い切りミーハーしていたせいかブランドに興味がなかったし、美術館も以前訪れた時に一通り観ていたからそんな風に思ったのかもしれない。
それでも街で安い服を見つけることに喜びを見出し(二人ともお金がなかったので)「一点につき、二千円以内ね!」を合い言葉に街を歩き続けたのであった。
二人とも変わった服に目がないところは似ていて、くたくたになるまで気に入った服を捜し求めたので、
「これではまるで靴が脱げなくて踊り続ける踊り子のようだわ。誰か、止めて!」
と佐和子が悲鳴を上げたことから、「踊り子」が私たちのキーワードとなり、「くるくるくる回り続ける踊り子よ」と言いながら私たちはショッピングを楽しんだ。
ミラノ第一日目はそんな風に「知的さ」とかけはなれて過ごしてしまい、少し後悔した。
ところで私たちのガイド役を快く引き受けてくださった松山修平さんは、非常にアクティブで面倒見の良い方である。
私たちが「踊り子」になる前に修平さんのアトリエを訪れた際、イタリアの雑誌を見せてくれながら、イタリアについての話を熱心にしてくれて、そして帰り際彼はこう言った。
「明日は朝の8:00に迎えにいきます」
私はその衝撃的な発言に縮み上がった。
「そんなに早く起きられるわけないじゃん」
瞬間的に反発してしまったが、普通の人はそのくらいの時間から行動するもんなんだわ、と思い直し、必死で反発を悟られない努力をした。結果、私はぎこちないな笑顔を浮かべた。
「なにか、おかしいですか?」との修平さんの言葉に隣りの佐和子を見ると、唇の形が不自然なほど逆三角形になっている。
彼女もまた動揺を隠すために不気味な笑顔を浮かべていたのだった。
フリーの私たちにとって朝の8:00はまだ夜中であった。
ゆえに「今日は早く寝ようね」「目覚し時計持ってきてよかったあ」と、たかが、7:00に起きるために私たちは非常に緊張しつつ眠りについたのであった。
[バルカモニカには1億年前の生(せい)の刻印が…]
翌朝。
無事に起きられた私たちが修平さんの車で向かったのはミラノから北東約120キロにあるCAPO DI PONTE(カーポ ディ ポンテ)のVALLE CAMONICA(バルカモニカ)だった。
高速を快調に飛ばしていた修平さんが速度をゆるめつつ、 「ここで高速を降りましょう。いいものをお見せします」 と少し得意気に言った。
車は山間の道を走り、やがて私たちが目にしたのは、朝の光に真青に済む湖、イセオ湖だった。
「ここはあまり知られていないルートなんですよ。いいでしょう?」とまたまた得意気な修平さん。
まったく、美しい青だった。
私たちは澄んだ空気に気持ちよく深呼吸しながら、記念撮影をした。
もう、その湖の美しさだけで、私は「早起きっていいもんだなあ」と単純に満足していた。
が、その後、訪れたバルカモニカは、それ以上のインパクトを私たちに与えたのだった。
<イセオ湖で。まだ眠い2人>
「現代アートと取り組むには、まずここからだと思うんです。是非、見て欲しいところです」 と修平さんは言った。
バルカモニカには約12000年前よりローマ時代に至るまで、その地に住んでいた人々が岩に掘った図像が残されている。
むき出しになった岩にいろんな絵が刻んである。踊っている、食べている、狩りをしている・・・。人々の「生活」がそこにはあった。
<バルカモニカには20万以上の図像があると言われている>
その絵は皆生き生きとしていて、そこからざわめきが聞こえてきそうだった。
アートとかそんなのはいっさい抜きにしても、気が遠くなるような昔、確かにここで人々が生活し・・・おそらく今の私と同じように、何かを考え、もしかしたら、悩み、獲物をとることや、食事を作ることなどに必死になっていたのかもしれない、なんて想像すると、それだけで体全体を大きく揺らすような感情の動きがあった。
修平さんは多くを語らなかった。佐和子も言葉少なだ。よく見ると彼女の目に光るものが・・・。
私はふたりから離れ、小さな岩に腰掛けた。
天気が良かった。
澄んだ青空と空気、ゆったりと横たわる山々。風が木々を揺らす音だけが聞こえる静寂の中、私は大きく深呼吸した。
シーズン・オフだから、私たち以外に人はいなかった。日本人がここを訪れるのは大変珍しいのだと、受付のおじさんが言っていた。
私は、ガイドブックにも載っていないこのようなところに連れてきてくれた修平さんに感謝し、そして夜、ワインでも飲みながら佐和子に涙の理由を聞いてみよう、と思った。