特別な物語 軽井沢時間

◆―◆―◆―3.私の軽井沢、「秋」―◆―◆―◆

2020/04/22

 

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 いつの日か、遠い地で、軽井沢での生活を懐かしく思い出すことがあったなら、そのイメージのほとんどは「霧」にふかく包まれているのだろうと思います。

 軽井沢の霧の発生率は年平均130日ちょっと(ちなみに東京は5日ちょっと)で、湿度も高く、年平均78%だそうです。

 当然、家を建てる際には、寒冷対策と合わせて湿気対策が肝要となり、このあたり建築業界に身を置く方にとっては知恵の見せどころとなるわけで、同時にある意味やっかいなところなのでしょうけれど、お肌にはとっても良いようで、長年悩まされ続けていた乾燥肌が、軽井沢に移住してしばらくするとしっとりと落ち着きました。 

 春と、そして紅葉美しい秋、頻繁に乳白色に町を覆いつくす霧。

 最初はその湿度と運転の際の恐怖ゆえ歓迎しなかったのに、いつしか愛するようになり、いまでは、それなしでは生きられない身体になってしまいました。肌のためではなく、多分に精神的なもので、濃霧ともなればそれだけで、多くの好ましくない事柄から遮断されたかのような「安堵」がふかく胸に広がるのです。

 肌がざわざわと騒ぐときもあり、そんなときは霧の世界に身を置くためだけに、外にふらふらと出かけます。

 「視界一メートル」もけっして大げさではないその世界は、昼間であるのに周囲からの視線が閉ざされて、人や車がいつ通るかわからない小道なのに、動くプライベートルームのよう。なにかをしでかしたくなる誘惑、抗いがたいエロティシズムに満ちています。

 と、このように私は霧が好きで、そこには「安堵」と「エロティシズム」があるようだ、とは漠然と感じていたのですが、先日ある体験をして、「霧」と「軽井沢に住む」ことの関連を見出しました。

 仕事の打ち合わせにあるホテルのラウンジへ出かけたときのことです。

 秋晴れの午後で、テラス席に面したあたりは柔らかな陽が降り注ぎ、陽が届かない奥の席とが織り成す光と影のコントラストは、レンブラントの絵のようでした。

「どの席がいいですか?」と、相手の方に問われて、私は迷わずに奥の最も暗い席を指差しました。

 肌のアラが目立たずに少しは美しく見えるだろう、という魂胆はもちろんありますが、明るいところはどうも落ち着かないのです。相手の方が意外な表情をなさったので、私はつい「ごめんなさい、暗いところが好きで」と謝りました。

 そのとき、あるひとから言われたひとこと、「霧の日が好きだなんて、そうは見えないのに、けっこう暗いひとだったりしてね」というひとことを、思い出したのです。

「霧」→「暗い」とは、私にとっては新鮮な連想だったけれど、よく考えてみれば、霧の日はたしかに暗い……。

 私は陽の光が届かないソファに腰を下ろしながら、ついさきほど、奥の暗い席を指差して選んだ自分の行為が、軽井沢に住むことの選択と重なって思えてなりませんでした。

 霧が多いことからのつながりとはいえ、「軽井沢は暗いの、だから好き」なんて言ったら、爽やかな避暑地あるいはスローライフの夢かなう地として軽井沢をイメージしている方々から嫌われそうですが、明るいところでは安住できない人間も、確かに存在するのです。

 秋がふかまると、霧もふかくたちこめます。愛すべき季節です。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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