●美術エッセイ『彼女だけの名画』14:ロンドン、希望の弦の音色
2025/11/10
真夜中、ひとりきりの部屋。
わずかな灯りだけがたよりの空間で、目を閉じる。受話器を握りしめる手が痺れているのも気づかないまま、耳を受話器に押しつける。彼のひとことを聞きもらすまいと、いや、彼の言葉が、どうか私にとって絶望ではありませんように、おそれながら。
ふと「別れ」を意識する。
「…それで、あなたはどうしたいの?」
絶望的な問いかけ。そして返事を待つ永遠の時間。電話の向こう側で押し黙る彼。
何度も繰り返されてきたことだ。けれど今回こそほんとうに終わりかもしれない。
だからやめればよかった。
真夜中に、自分の情緒不安定を理由に電話などかけなければよかった。
私はただ、彼の声を聞きたかった。わけもなく暗い私を慰めてほしかった。
順調な関係のときは、それも許される。けれど、ふたりの歯車が噛み合っていない時期、それをするのは危険だった。
夜、電話、暗い私、最近噛み合っていないふたり、とくればその内容が愉快になるはずはない。
私は自分と同じモードではない彼に苛立ち、彼は「またか……」とうんざりし始める。そして、こころの真ん中にある気持ちとは裏腹に「別れ話」までたどりつくのだ。
でも、もし彼がいま、受話器に向かって「好きだ」と言ってくれたら、すべてが解決される。と私は知っている。
だから、私は待っているのだ。
目を閉じて、聴覚にすべてを集中させて、身動きもせず。
不毛な、けれどその瞬間の私にとっては、それ以上に重大なことは存在しえない。
……そんな状態にある自分の姿を思い浮かべたとき、いつも思い出す絵がある。
ワッツの描いた「希望」だ。
地球を思わせる薄茶色の球体の上に、目隠しをした女性。竪琴をたいせつそうに抱え、最後の一本の弦を爪弾く。彼女の魂は一本の弦が奏でる微かな音色に集中する。
全体に薄暗い淡い色調が、あきらめに似た「絶望」を感じさせる。けれど、一本の弦がある。それは、絶望のなかでの彼女のたったひとつの、ぎりぎりの、希望。
ひとは、その状況は戦争であったり、人生そのものであったり、そして恋愛であったりするけれど、この絵のような「希望」を経験しているはずだ。
私の一本の弦。美しい音色を奏でてくれるときもあったし、まったく鳴らないときも、あった。
絵のなかで耳を澄ます女性。
彼女は、その音色を聞いたのだろうか。
いつか確かめたい、と思っていた。
だから、ロンドンのテイト・ギャラリーを訪れたとき、私は「希望」を探した。観たくて。
音色が聞こえるだろうか、確かめたくて。
けれど、それは不可能だった。
不運にもその時期、「希望」は海外の美術館に貸し出されていたのだ。
落胆は大きかった。
逢えない日々が恋する気持ちを募らせる、というのは(いままで陳腐だと思っていたけれど)もしかしたら真実かもしれない。
たしかに私のなかで「希望」の存在が以前にも増して大きくなったのだ。
帰国してワッツに関する本を読んだ。そのなかでこの絵についての興味深いエピソードを見つけた。
1967年、中東戦争でイスラエルに惨敗したエジプトの兵士たちに「希望」の複製が配られたというのだ。
私の恋愛電話事件とはレベルが違うけれど、わかる気がした。
そして、なぜか救われるような気持ちのなか、思った。
配布を企画したひとは、絵の女性が爪弾く弦の音色を聞いたのだろう。
それはきっと繊細で美しい音色だったに違いない。
***
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
絵画:ワッツ作「希望」
*テイト・ギャラリーは現在のテイト・ブリテン
*携帯電話がなかった時代のお話。電話、赤い色のだった記憶があります。
それにしても、何年経っても、同じこと繰り返している……。
引越しから4日目、軽井沢時代からたいせつにしている「希望」の複製画を壁に掛けました。
そして、美術エッセイを更新しようと思ったら、これだったので、ひとりでしみじみしています。
