サイトリニューアルと20年という月日と愛情と

山口路子Official Site、本日リニューアルオープン。ブログの過去を振り返って、そして現在を見つめてみようと思う。
このサイトの元となるブログ「山口路子World」をはじめたのは、2006年6月28日。20年近く前のことだ。
私は40歳になったばかりで、小説『軽井沢夫人』が刊行される直前のことだった。
文字通り、死ぬ気の覚悟で出した小説で、小説そのものについては、いまは書けない内容のもので、だからこそ、よくぞ出した、と自分に感心したりしているけれど、ほんとうに、あのときは勇気が必要だった。
一方で私は「軽井沢夫人ではないところの私の内面を伝えたい」と切に願った。
そして、ブログ「山口路子World」を作って、わりと頻繁に更新をしていたのだった。短い記事が多い。誰にも言えないことを本の内容や映画の内容、言葉を借りて言うという、私にとってブログは、なくてはならない存在、何でも話せる存在、私の分身だった。
そのブログを削除したのは2014年4月24日。48歳の誕生日直前のある午後だった。そのことを当時はずいぶんやわらかく、なんだかわからないようにして書いている。差し障りがあるからだ。ある人に読まれても大丈夫なようにした。
あのころの私はほぼ毎日自死の衝動と闘っていた。心身が弱りきっていて、自分がしでかしたことに絶望し、いろんなところで書いているからしつこいけれど、娘の存在だけが私の命をつないでいた。
なにかしないではいられなかった。懲罰? いいえ、自分への懲罰、というと少しちがう。いったん死なないと生まれ変われないと思った。だから私はブログを削除した。自死の代わりに。
ボタンひとつで、たいせつに、たいせつにしてきた私の分身が消えてなくなった。あっけなく。
ブログ「山口路子World」を落としたら、力がへなへなと抜けた。泣いたかどうかは記憶にない。けれど、数日後、なにかがふっきれたような感覚があった。ここからだ、という、そういうかんじの感覚もあった。
潔くない性格が幸いしたと言っていいのか、ブログを落とす前に私は投稿したもののテキストだけはコピーして保存していた。ほかのは全部消えてしまったけれど、保存しておいた日記的なところだけでも、再構築しよう。サイトの作り方なんてまったくわからないけど、ひとりで作ってみよう。ブログ「山口路子ワールド」を落としてからおよそ3週間後の2014年5月16日、山口路子公式ブログ「言葉美術館」をアップした。(その日の記事)
やがてサイトをもっと充実させたい、ちゃんとしたホームページを作りたいという想いが強くなっていった。けれど、ひとりでやるスキルも時間もなかった。プロに頼むしかない。でも私の世界観や感性みたいなのに共鳴してくれる人に出会えるなんてこと、ほぼないだろう。
月日が過ぎたおよそ2年後の2016年2月29日、2カ月後に50歳の誕生日をむかえるというある日、Facebookの投稿でそんなことをつぶやいた。「募集!」というのではなく、そんなひとはいないですよね、といった調子で。
……私の世界が好きで、私の作品が好きで、私本人のことも作品ほどじゃないけどまあまあ好きで、だから「この人の世界観を構築するためのことなら、ボランティアでもやりたい!」というくらいのきもちのある人。そんな人に当たる確率は宝くじに当たるのよりも低いとわかってはいるけれど。あまり時間がないような気もするから、きちんとしたサイトを作って、いままで書いてきたものを残したい。けれど、「仕事ですから」的なかんじでしてもらうのではだめで、いつもそばにいて、私の仕事を見てくれてサポートしてくれる、そういう人がほしい。そんな人いないってわかってはいるけれど、ほしい……
そんなことをなにかの記事の最後にちょっと書いたのだった。
そうしたら、まさかの事件が起こった。そう、あれは事件と呼ぶにふさわしい。
私の本の読者であり、トークイベントなどでときおりおしゃべりするようになり、私が開催する「ミューズサロン」にもよく顔を出してくれていた水上彩さんからメールが届いたのだ。
彼女はお手伝いをしたいと言ってくれた。
そして、長い長い時間をかけて水上彩さんは「言葉美術館」から記事や写真をひとつひとつひろって、コピーして、新しいサイトにペーストするという、気が遠くなるような作業をこつこつと行ってくれた。当時も言葉が出ないほどの想いだったけれど、いまあらためて、とんでもなく素晴らしい贈り物を私はもらったのだと思う。
こうしておよそ5カ月後の2016年7月15日、水上彩さんの力で「山口路子ワールド」公式サイトがオープンした。(そのときの記事)
現在は執筆業で大活躍の水上彩さん、さすがの文章力でそのときのことを書いてくれている。私と同じように彼女もさまざまに考えた上での決断だったことがわかる。彼女の物語がある。(こちらから)
以後9年もの間、彼女は私のサイトを管理し、更新し、デザインに手を入れ続けてくれた。
それだけではない。一時期は連載までしてくれていた。今回のリニューアルで彼女の記事をまとめた。
やがてあまりにも膨大にふくれあがったデータのせいで、サーバーとのおつきあいがうまくいかなくなってきた。彼女は、この先のことはかなり専門的になると思うので、どなたか詳しい人に力をいただきたいです、と言った。
詳しい人……。佐藤和己さんの顔がぱっと浮かんだ。いやいや、けれど、どうなんだろう。アルゼンチンタンゴでいつも一緒の彼に、タンゴとは関係ない仕事のほうで頼み事などをしてよいものか。その世界のプロのトップにいるような人に、個人のサイトなんていう瑣末なことの相談が許されるのか。
まる1日悩んで相談という形で声をかけてみた。
快く……とはこういうことをいうのだ、という空気感で、彼は引き受けてくれた。
私は、サーバーが不安定なかんじだったから、なによりデータが失われることが怖かったのだけれど、彼はあっという間にすべてのバックアップを済ませて私を安堵させてくれた。それを知らせるメールを受信したとき、私はひとり両手を胸の前でぎゅっと握りしめるという感激ポーズをとって、それからパソコンに向かって頭を下げた。
次の段階に進むときに彼は私にたずねた。
「どの程度のものが希望ですか? 5年程度もつものなのか10年なのか……」
私は答えた。
「私が死んだあとも残る程度のものが希望です。なので、契約も私個人ではなく会社でします」
彼はそれに対応できるものを準備してくれた。そして、私には想像もつかない世界の、高度なあれこれを作業し、今日、リニューアルオープンすることができた。
彼と実際に会っての打ち合わせは2回、私が所属する「ブルーモーメント」のオフィスで行われた。水上彩さんも引き継ぎ作業のため1度オフィスに来てくれた。
そのようすを見ていた娘が言った。すてきな人たちに恵まれているね。
ほんと、その通り。
デザインはWordPressの使い方を検索しながら、自分でしてみた。だから素人の香り漂うものになっているけれど、それでもいいし、これから気が向いたときに、色とか配置とか、手を加えていこうと思っている。
水上彩さんと佐藤和己さん。ふたりのきもちと労力に見合うものは何だろう。いったい何がふさわしいのだろう。いまそんなことを考えている。