ブログ「言葉美術館」

▪️トルコ旅行記4日目 新市街散策、ナザボンと猫を経てワインのコルクが抜けない

2024/11/08

*トルコ旅行記1日目
*トルコ旅行記2日目
*トルコ旅行記3日目

★10/29(火)4日目 新市街を散策した1日 

▪️のんびりと始まった新市街

 ぐっすり眠ってすっきり起きた。朝食ビュッフェ付きの宿泊予約だったので、オープン時間の7時半にレストランへ。礼拝の合図「アザーン」とともに早起きして、そして今朝もおなかがすいている。

「それにしても昨夜のあの異変はなんだったんだろう、不思議だ」

「何かもらっちゃったんじゃない?」

 くるくるサマー事件を話しながら、ものすごく充実しているホテルのビュッフ式朝食を。ものすごく充実しているからといって胃が大きくなるわけではない。あれもこれも食べたいのに残念。

「スイーツもずらりとあるね。でも、手が伸びない」とYが言う。「トルコスイーツは合わないみたい」

 Yにとってはひどく嘆かわしいことなのだろう。 

 窓側の席からはボスポラス海峡が一望できる。夕陽のような朝陽がやわらかく差す席で穏やかなひとときをすごした。

 

私ではないほうの人

 

 今日は1日「新市街」エリア観光の日。

 とはいっても、街を散策するだけの予定なので、名所観光でぎゅうぎゅう詰めの2日間のあとだから、なんだかとてもリラックス、のんびりできそう。

 部屋に戻ってYが仕事を済ませるのを待って新市街へ。

 今日はトルコの建国記念日。

 昨年が100周年だった。101周年とはいえ、なにか特別な催しがあって、歩行が妨げられたり、なんらかの騒ぎが起こったりしたら困るな、と案じていたのだけれど、とくに何も起こらなかった。

 ふだんからトルコはいろんなところに国旗が掲げられているというけれど、建国記念日だからかな、建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクのご尊顔がいたるところに、夢に出てきそうなくらいに、あった。それにしてもきれいな顔立ちの殿方…。なのに彼のいる写真を一枚も撮っていないってどういうこと。

 午前中の新市街のメインストリート、イスティクラル通りははまだすいていた。

「ああ! きもちいい! 新市街が好きだー!」

 Yが喜んでいる。祝日のトルコ、これから人がどんどん増えることになるのだが、たしかに昨日までの人混み地獄から比べるとすがすがしかった。

 見知ったブランドや見知らぬトルコ発のブランドのショップ、しゃれたかんじのカフェやレストランが並ぶ通りを、いくつかのお店に立ち寄りながら、量り売りのスイーツ店で買ったチョコやグミやナッツを食べながら(ほとんどYが)、文字通り、街をぶらぶらした。

 

 新市街は旧市街に比べて新しい建物が多く、古くからヨーロッパの影響を強く受けながら発展してきたため、とってもヨーロッパ的。

 そして前話で、旧市街が京都だとすれば新市街は東京、みたいに書いたけど、そしてそれはYが言ったことなのだけど、まさにそんな印象ではあった。

 それにしても、旧市街とはまったく異なっていて、まるで別の国に来たようなかんじ。

 前日の夕刻、排気ガスを吸引しながらタクシーでホテルに着く直前、ピカソの大きな顔が現れてびっくりしたものだった。大きな垂れ幕があったのだ。あとでそこはアタテュルク文化センターで、年内いっぱいピカソ展が開催されていることを知ったのだけれど、いま思えばあれは、いままでいた世界とはまるで違うところに来たことの象徴的な景色だったと思う。

 旧市街はトルコの歴史を感じる街で、新市街はトルコの現在を感じる街なんだと思う。

 それにしてもピカソとは。有名な画家だから驚くことではないけれど、いくらでもある選択肢のなかでピカソ。前日の朝のカフェのピアフと合わせて、イスタンブールに歓迎されていると思うことにした。ピアフもピカソも、私の命の本に書いた、たいせつな人だものね。二つの共通点は書くのにすごく苦労したこと、そして売れていないこと。しくしく。

 さて。

 新市街のランドマークであるガラタ塔のふもとに着いたときには、すでに観光客でいっぱいだったこともあり、塔はただ眺めるだけにして、「リベンジしたい」と力んでいるYが提案した、「ガラタ塔を見ながらリフレクソロジーを受けられるサロン」に行ったりした。

 この日はほんとうに、のんびりと過ごしたから、こんなことがありました! 書くようなことはあまりないのだけれど。

 それでもいくつかの話題はある。

 

▪️「ナザボン」物語

 まずは「ナザボン」。

 新市街のお土産屋さんではじめて「ナザボン」を買った。

「ナザール・ボンジュウ」。

 ナザールとは邪視(邪悪な視線)、ボンジュウはビーズを意味する。

 邪視を向けられたらこの目玉ではねかえしてやるわよ、というお守り。私たちは略して「ナザボン」と呼んでいる。

 ナザボンが割れちゃったり、ナザボンを無くしちゃったりしたら、それはナザボンが身代わりになって災いから守ってくれたということ。

 自分で買うより他の人からもらったほうが効果が強い、とどこかの記事に書いてあった。プレゼントされたほうが効果が強いだなんて、お土産に最適なストーリーじゃないの。

 初日からいろんなところでナザボンを見かけていた。あ、ナザボン、またナザボン、大量のナザボン。

 お土産屋さんにはどこもどっさりと、さまざまなナザボンが売られていて、売られているだけじゃなくて、お店のエントランスや車なんかにもぷらぷらぶらさがっている。

 

こんなふうに、どこにでもあるナザボン

 

 最初は、目玉だよ、こわいよ、と思っていたのだが、こう頻繁に目にするとなんだかみょうな愛着がわいてきて、いつしか私はナザボンが愛しくなっていた。

 旧市街では忙しすぎて買う余裕がなかったので今日こそナザボン。

 おびただしい数のお土産屋さんの中から急な坂道の途中にあった小さなお店を選んで入ったのは、呼び込みがいなくて、中にひとり、やる気のなさそうな青年がぽつんと座っていただけだったから。

「出会いよ出会い」と集中して多くのナザボンのなかから、「私を待ってくれていたのね」と思えるものを選んでいくつか買った。キーホルダー。自分の分と、お友達のお土産のために。お友達がキモい、とか言ったら自分の部屋にたくさん飾ればいいもんね。

 この先、別のお店でも大小さまざまなナザボンを、そしてナザボンがデザインされた食器を買った。旅行最終日に訪れたカッパドキアでもいくつものナザボンを購入することになる。

 Yも大きめのナザボンを買っていた。いくつものお店をめぐってもなかなか買わなかったのに、あるお店で「出会えた」と言って買っていた。

「これを部屋に飾って、悪夢を見ないようにしてもらおう。そういう力がありそうじゃない?」

「この目で睨まれたらね、たしかにありそう」

 誰もが怖いこと、嫌なことから守られたい。守ってくれるもの、守ってくれるひとを求めている。

 ところで。愛しい、とか言いながら、いつも「メザボン」と言ってしまうのはなぜ。「目 メ」のせい?

 いまでも私たちの間では「メザボンってさあ…」「メザボンじゃないよナザボンだよ」といった会話が繰り返し行われている。

 帰国して撮った写真をあげるけれど、お皿は集合体恐怖症の人にはきついみたい、お友達からそう言われてみると、お皿の模様は私も苦手みたい。

 

たくさん買いました

 

 

▪️香水。よい買い物をした、と思っていたときの話

 ぶらぶら歩いていたら素敵な香水のお店を見つけた。

 ちょっと高価な、こだわりの香りっぽい雰囲気につられて中に入った。

 香りをかぐためのジョウゴがシルバーでやゴールドで美しかった。「これは素敵だね」とYは仕事の参考にしているのだろう、ちょっと仕事っぽいまなざし。

 優しいおじさまに色々試させてもらって、ちょっと高価ではあったけれど、Yはお気に入りの香りに出会えたようで購入。ショッパーを掲げてお店の前で記念写真も撮った。

「いい買い物ができてよかったね」

「ようやく」

「何も欲しいものがない、って嘆いていたものね」

「そうそう。綺麗だったよね? クリスタルの香水瓶」

「とても綺麗だった。華奢でね」

 そう、華奢でね。

 ……。

 翌日、この喜びの出来事は「香水ショップの悲劇」と化してしまう。でもこれは翌日の話だから後述。

 喜びの時代の写真、ショップのウインドウの写真をあげておこう。ショップの名前がないものを選んだのは小心者だからです。

 

 

 

▪️巨大ジャガイモ「クムピル」物語

 お昼になっておなかがすいてきたけれど、お互いに「ザ・トルコ料理っていうのはもういらないなあ」モード。

「でも、唯一、あれなら、ってのがある!」とY。「当てて」

 すぐにわかった。「巨大ジャガイモでしょ?」

 ところどころのレストランの店先で目にしていた。

 それは「クムピル」というイスタンブール名物B級グルメ。

 小顔の人なら顔の大きさくらいある巨大なジャガイモをオーブンで焼いて半分にカット、バターとチーズを入れてコネコネ、マッシュポテトみたいにする。そこに野菜とか豆とかお肉とか、好みのトッピングをたっぷりとのせて、ケチャップとマヨネーズをかけてモグモグ。

 私も興味があった。マッシュポテトは大好き。

「海辺のレストランに行こう」ということで急な階段をひたすら降りて、海風がさわやかな海辺に出る。

 道いっぱいにレストランが並ぶ。色とりどりの大きなパラソルの下、たくさんの人たちで賑わっている。

 奥のほうの席が空いていたので、そこに座って、トッピングはYにまかせ、2つのチャイをオーダーした。

 にこにこと、巨大ジャガイモを捧げ持ったYがテーブルに「クムピル」なる料理を置く。ほんとうに大きい。2人で一つで充分だ。

「チーズをトッピングして、って言ったら中に入ってるよ、って言われちゃった。もっと欲しいってことなのになあ」とYは不満そうではあったが、このクムピル、じつに美味しかった。

 

 結局、栗とかジャガイモとか、ちゃんとしたトルコ料理じゃないものが一番美味しかったってことになるかもね。

 うんうん、と頷き合いながら、ほぼ完食したのだった。

 ほぼ、というのは、猫にあげた分があるから。 

 

▪️Yがイスタンブールで「猫におちた」話

 そう、猫。

 イスタンブールの猫。

 イスタンブールは猫好きにはたまらない街、たくさんの猫がいる、とは有名で、私も知っていた。そしてそのようすは想像以上だった。

 書店に入れば、平置きに並べられた本の上に猫が座っていたり、お店に入ろうとしたら靴の上に乗ってきたりと、とにかく、そこかしこにいる。

 調べてみると、猫をめぐって政治的にもいろいろなことがあったようで、何度か、猫にしてみれば危機的状況もあった。そんななか2004年に「動物愛護法」が制定されてイスタンブールは「猫の街」となってゆくわけだけれど、3年前の2021年に通称「動物の権利法」という法律が制定されて、動物が「もの」や「商品」ではなく、「生きている存在」としての権利を得たんだって。

 これによって動物をいじめたり殺しちゃったりした場合は「犯罪者」となって実刑が科される。

 イスタンブールに行く前に観ておこうと思って、でも「オスマン帝国外伝」再見を優先してしまって、観ていないあの映画を見なければ。

 2016年のトルコ映画『猫が教えてくれたこと』。

 イスタンブールのそこかしこで気ままに暮らす猫たちと、猫なしでは生きられないトルコの人たちとの日常を描いたドキュメンタリー映画だ。

 私が「オスマン帝国外伝」を優先してしまったのは、猫の映画だからだ。

 まだ遠くに置いておきたいものとして距離を置いているのが猫なのです。いつか距離が近くなるのかならないのかはわからないけれど、とにかくいまは遠いところにいてほしい存在。

 だからイスタンブールで猫を見かけても、寄って来られても、しらんぷりをしていたというのに。

 私たちのテーブルの隣に小さな空き地があって、そこで母猫がぐうぐう寝ていて、たくさんの子猫たちが遊んでいた。

 Yは子猫たちのようすをおもしろそうに眺めていた。我が家は動物を飼ったことがないから、Yは動物に慣れていない。

 おそるおそるじゃがいものかけらを差し出す。すると、それはそれは愛らしいようすでモグモグする。ほかの子猫も寄ってくる。またジャガイモのかけらを…繰り返す。

 Yが言う。なんてかわいいんだ。こんなにかわいいなんて知らなかった、と写真などを撮っている。

 恋におちた瞬間を目撃したぞ。いいえ、恋におちた、じゃなくて、Yはイスタンブールで猫におちたのだ。

 このときYが撮った猫の写真をあげて猫の話はおしまい。

 

▪️ひたすらぶらぶら街歩き

 その後はまたぶらぶらと街歩き。

 まるでパリのどこかの一角のような骨董街で美しい指輪を眺めたり、しゃれた書店に入ったりと、かなり歩いて、疲れて入ったカフェでシーシャとトルココーヒーを。

 じつに平凡な街歩き。時間がゆっくりと流れてゆく。

 

 またぶらぶら歩いた。ぶらぶらぶらぶら。

 それからレストランで夕食を、ということになったけれど、なかなかお店が決まらなくて、すごく歩き回ったら、Yが「血糖値の低下により手がふるえます」なんて言うものだから、あわてて来た道を戻って、いちばんよさそうだったレストランのテラス席へ。

「食」はまかせるよ従うよ、とか言いながら、「ここはちょっと…」とか言ってふりまわしちゃってごめんよ。

 注意深く、失敗のないように、ケバブなどはやめて、パセリのサラダとフムスとピタパンをオーダー。失敗することはなく、ゆっくり過ごせた。

 しかも、だから選んだ席ではなかったけれど、向かい側のお店に大量のナザボンが。まさに絶景であった。ナザボンラブ。

 

 新市街の夜は、ちょっとあやしく賑やかだった。

 どのあたりでミロンガが開催されているのだろう、と何度か思った。調べてきていないし、タンゴシューズももってきていないから行くつもりはないけれど、あやしく賑わっているようすに、ここのミロンガはどんなだろうと思う。

 旧市街では一度も思わなかったのに。やはり新市街は「今」が生きている街なのだろう。そんなことを考えたけれど、踊りに行きたいというきもちには通じなかった。

 彫りの深い顔立ちの男性にお会計をお願いして、お店を出た。

「そろそろ平べったい顔をいっぱい見たくなってきたよ」とYが言った。

左にずらりとナザボン。手にはチャイ。

 

 ホテルに帰る途中、スーパーマーケットで赤ワインを買った。「トルコワインの赤で高くないものを」とお店の人に選んだもらったものだ。コルクタイプだったからお店の人にあけてもらった。コルク、よく失敗するから。

 彫りの深い顔立ちの、さばさばしたかんじの女性だった。彼女はいったん抜いたコルクをぐいっと押しこんで、はいよ、ってかんじで渡してくれた。

 ホテル近くのタクシム広場、タクシム・モスクがみょうに美しく目に映った。

 

 

 ホテルの部屋に戻って、シャワーを浴びて、ワインを飲もうとしたらコルクが抜けなかった。彫りの深い顔立ちのさばさばした彼女は抜いたコルクを再び強く入れすぎたみたい。結局ホテルの人に頼んでコルクを抜いてもらった。

 夜のボスポラス海峡を眺めながら飲んだトルコワインはとろりと甘かった。

 こうしてぶらぶら街歩きをした新市街の1日が終わった。
(続く)→▪️トルコ旅行5日目「香水ショップの悲劇」を経てカッパドキア洞窟ホテルで軽井沢の家を想う」

 

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