ブログ「言葉美術館」

◆奇跡の画家と透明な時間

2016/06/21

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「奇跡の画家」(後籐正治著)を読んだ。

……「女神像」が多くの人の心を捉え、今や個展に人が押しよせる画家・石井一男は50代まで画家として世に出ることはなかった。石井の清貧の暮らし、彼を世に出した画商、そして彼の絵に救われた人々。……

横着をして文庫本の裏表紙の文章から引用。

この本、面白く読んだ。

石井一男というひとりの画家が描いた絵をめぐる、さまざまな物語が静かに胸にせまってくる。本来、絵ってこういうものなのでは? という考えさせられる。その芸術性とか専門家の評価とか、そういうものとは別世界で展開され完結する物語。

普段絵を買ったりする習慣のないひとが、欲しがるという絵は、私が大好きな画家ルオーに酷似していているので、私もこの画家の絵が好きだ。一度個展に行き、本物を見てみたい。

後藤正治の文章は、がっしりした体躯の男性を想像させるようなそんな文章。次の箇所にラインを引いた。

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美の鑑賞として、置物や飾りとして、あるいはときに財産としても絵は在るが、それとは異なるものであったことは明らかである。

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と石井一男の作品について述べた後で、

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あらゆる夾雑物から離れ、一人、透明な時間帯に入ったとき、人は一枚の絵と根源的に感応しあう――。そう思うのである。

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とある。

私は、ここで何を思ったかといえば、ずいぶんと長い間「透明な時間」をもたなかったけれど、またこのところそれが戻ってきているな、ということだった。

たぶん、いまなら出逢いがあるはず。

あの日あのとき、クノップフの「見捨てられた街」に、ロセッティの「ベアタ・ベアトリクス」にワッツの「希望」にクリムトの「接吻」に感応したように、なにかこう、こちらの準備は整っています、というそんな気がしている。

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