◆アナイスとマリリンとミューズ、そして母と娘
2017/02/08
想いが、千々に乱れている。
もういや。
「そんな状態続けてると、そのうち体まで千々に分裂するから、誰かひとりに決めなさい」と自分に言ってはみるが、なかなか難しい。いま一番興味があって逢いたいのはこの人、というのは自分でわかっているけれど、状況がそれを許さない。ほかの人とも逢って、そのときは集中して愛さないといけない。
ほんとうは一人の人だけを集中して愛したい。期間限定であっても。
つくづく、私はいくつかの作品を同時進行できない、使えない物書きなんだと思う。
そんななか、感動の文章を拾ったから、記しておこう。いまつきあっている三人のうちのひとり、アナイスの『リノット』から。
『リノット』はアナイスの少女時代の日記で、父に捨てられた悲しみと、父に捨てられたのち、三人の子どもをかかえてたくましく生きる母ローザへの強い尊敬が、つづられている。
さいきん、母娘の関係について、いろんな人たちと話すことが多いから、目にとまったのかもしれなかった。「母娘」のテーマって、まるで呪いのように、多くの人にとりついて、ほとんど永遠に離れない……みたい。
私が今回、ラインを引いたのは、敬愛する杉崎和子先生の「訳者解説」部分。50歳をすぎていたアナイスの日記から、母の死を悼む長い記述の一部が抜粋されている。
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母は、私が彼女の元を離れて、自分の独立した生活を始めたとき、私との間の扉を閉じてしまった。それからの私は母の元に帰ろうとして、限りない時間と努力をついやしてきた。母親は子に奉仕し、子のために面倒な仕事をすべて引受け、食べ物を与え、働き続ける。それなのに、そうして育てた子の姿を母が受け入れようとしないとしたら、子供にとって、それは、どうにもならぬ重荷ではないか。
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そうなんだよ。これこそが呪い。そして永遠の普遍的なテーマだ。みんなここで苦しんでいる。母親も、娘も。娘だけじゃない、母親だって苦しんでいる。ただし、娘の苦しみのほうが、たいていの場合は、はるかに深い。なぜならどういうわけか、年を取ると不感症になるからなのか、それは関係ないか、とにかく、どういうわけか、たいていの場合、母親のほうが、おそらく感じ方が鈍い、そう思う。
杉崎和子先生は、アナイスの、この日記の部分を引用してから、次のように続け、「訳者解説」を終えている。
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しばらくして、アナイスはオークランドにホアキンを訪ね、弟と二人で、母の遺品の整理をする。遺品はわずかしかなかった。母の趣味だったブックバインディングの器具があった。その器具で、少女時代のアナイスの日記帳を母は製本してくれた。ヘアーピンが何本か、手編みのレース、スペインの黒いレースの扇子、子供たちの最初に抜けた歯、最初に切った髪、子供たちから受け取った手紙の束。
アナイスが母に送った手紙は一通も捨てられなかったのか、大きな箱三つにぎっしりと詰まっていた。
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最後に一行で、わっと涙があふれた。はじめて読んだわけじゃないのにね。
美しい文章、力のある文章、愛のある文章は、こんなふうに読む者の琴線をかきならす。
すこし、力がもどってきた。私も誰かの琴線をかきならしたい。集中して、いまの私の全部を捧げよう。