ブログ「言葉美術館」

◆「個人のたたかい」から離れちゃだめ

 20170114

 年始が苦手なのはもう自覚しているけれど、それにしても、心身に力が入らない日々がこれだけ続くとさすがに、どうにも辛くなってくる。

 そんなとき、慰められたのが、茨木のり子の言葉だった。以前にもここに書いたことがある。「個人のたたかいー金子光晴の詩と真実」

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 この期間、ぜんぜん文学書は読まず、詩も発表していません。ただ自分のなぐさみのためにだけ、手帳に詩を書きつけたりしていました。けれども、この期間、金子光晴の眼はまばたきをわすれたミミズクの目のように、大きく開かれ、物の本質につきささる詩人の眼は、さまざまなものを視ていたのです。(略)

「詩なんか捨てたっていい。」

 しんそこそう思っていた、詩作の空白時代の五年間が、しかし金子光晴の心の柱を太くした、いちばん大事な時期にあたっていたのでした。

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 この文章にしがみつくようにして、そう、急流の川のなかで、ほそい杭にしがみつくみたいに私は、この文章にしがみつくようにして年始の二週間を過ごしていたように思う。

 きっと、こんな時期だって、私の眼はまばたきをわすれたミミズクの目のように、大きく開かれているはず、お願いそうであって、と。

 メイ・サートンが言うように、ああ、何も生み出していない、と落胆する日々にも必ず意味があるのだ、と。

 そしてあるときふと思った。金子光晴の空白の五年間って何歳くらいのことだったっけ。調べるために本棚から「個人のたたかい」を取り出してみれば、再び読みふけってしまう。

 空白の五年間は三十四歳から三十八歳だった。

 それにしても、金子光晴という人の大きさといったら、型破りで、自由で、そしてゆるぎない「個人」をもっていて。私、ほんとに、胸をうたれてしまった。

 文学者である森三千代との大恋愛、結婚、諍い、一人息子を両親に預けての夫婦揃っての、東南アジア、ヨーロッパ放浪、帰国後戦争中は夫婦で反戦の信念を貫き通し、息子の徴兵をこばみ、晩年は初孫にも恵まれ八十歳で亡くなっている。

 茨木のり子のまなざしの鋭さあたたかさ、そして言葉の美しさに、金子光晴という人の果てのない魅力が溶け合って、じつに豊かで美しい、私が信じたいものが、この本にはある。

 二十二歳のころの処女作のなかに「反対」という詩がある。その部分。

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僕は第一、健康とか
正義とかが大きらいなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。

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僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。

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 部分だけなんて、叱られそうだけど、でも、まあとにかく、この詩に対する茨木のり子の言葉。

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すぐれた芸術家は、若いころの処女作のなかに、一生かかって成しとげる仕事の核を、密度高く内包しているものだといわれますが、この詩はそのことを痛感させてくれます。金子光晴の、以後半世紀にわたるたくさんの詩業は、この「反対」という詩の豊富な変奏曲といってもいいすぎではないでしょう。

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 四十三歳のとき、1937年という、日本が戦争に突入してゆく年に出版された『鮫』という詩集、「詩人、金子光晴の本領は、はじめて骨格太く大きなすがたを、人々のまえに現した」とされる詩集の序文が、またいい。

「よほど腹のたつことか、軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあったときのほかは、今後も詩を作らないつもりです。」

 戦時中、思想統制に屈服せず、反戦を貫いた人は、ほんとうに少ない。金子光晴はその一人だった。

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金子光晴がもっともたいせつにしたのは「個人」というものでした。
国家権力にも強制された思想にも、そっぽをむいて、「自分自身の頭で考える、自分自身のからだで感じとる」という根本の権利を、なにものにもゆずりわたそうとしませんでした。

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 茨木のり子の、わかりやすく、真実を見抜く文章に、頭をがつんと殴られたみたいになる。

 私も、あまり離れないようにしないと。

 私という個人を、たいせつにしないと。

 私を理解してくれて応援してくれて、たぶん、すこし慕ってくれている年下のお友達と話をし、新しいことを少しずつ始めてみようという、そんな流れになって、少し力が戻ってきたように思う。

 要は、誰に好かれたいのか、という問題。誰に自分をわかってほしいのか、という問題。誰に私の仕事を認めてほしいのか、という問題。そしてなにより、私自身は、私という個人は、何が好きで何が嫌いで、何を表現してゆきたいのか、たたかっているのか、という問題。

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