ブログ「言葉美術館」

■■手当てのじょうずなひとたち■■

2016/06/11

111206_084501先日、久しぶりにアロマトリートメントで極上の時間を過ごした。

裸になって、やわらかく、けれど力強い女性の手で、ほぼ全身をケアされる。

日常、整体に通ってはいるけれど、それとはまた別の気持ちよさがある。


整体の先生は中国から帰化した、私より五つくらい年下の女性で、とても明るくて優しい。


アロマトリートメントを受けながら私は、整体の先生の手を思い出し、そしていままさに私の背をゆっくりと滑る女性の手を感じながら、「手当て」という言葉を思い出し、そこから連想して、H子ちゃんのことを想った。


よく知られているように、あるひとの身体に不調があったとき、そこに自分の手のひらをそっと当てるだけでも、効果がある。


だから私は近しい人が不調をうったえると、よくわからないままに、とにかくその部分に手のひらを当てる。

氣が出ているかどうかはあやしいけれど、とにかく想いだけはこめて、手のひらを当てる。


世の中にはこの「手当て」がとても上手なひとがいると思う。

実際に手を当てるのではなくても、その存在とか言葉とかまなざしとか、そういうもので「手当て」をする。


トリートメントを受けながら想ったH子ちゃんも、「手当て」がとても上手なひと。


H子ちゃんは才能あるデザイナー。

本づくり雑誌づくりなどを中心にご活躍。

ひと月くらい前に、久しぶりにお昼をご一緒した。


私は以前のブログでも書いたように、脱力状態にあって、「いまはそれでいいんだよ」と、自分を肯定してくれる言葉を渇望していた。

単なる気休めっぽい言葉ではなく、すごく説得力ある言葉を。

こころから「いまはこれでいいんだ」と思えるような言葉を。

……ほんとうに要求ばかりだ私は。


H子ちゃんはそれをくれた。


私の書くものについて、そのスタイルについて、そして私という人間のタイプについて、集中して言葉をつむぎだし、私に伝えてくれた。


自分の人生とは別のところで物語をつむぎだすのではなく、身をけずって書くひとなんだから、もっとそれを自覚しないと。


アウトプットばかりじゃだめだよ、インプットしないと。まちがっていないよ、まちがっているときは、私言うから。路子さん、それじゃ、死ぬよ、ってちゃんと言うから。


私はH子ちゃんを、美しいひとだなあ、と思う。


よけいなものをそぎ落としたような上品なファッション、ウイット&ユーモアのセンス、なんといっても、彼女はとてもきれいに食事をする。彼女のように美しく食べるひとはけっして多くはない。


そして、数時間、目の前の相手に真摯に対峙して、自分の言葉で意見を述べる。

自分のやり方を押しつけるのではなく。

ひとことも「私はこうしている」という言葉が出てこない。

自分のことは出ない。


もうひとり、似た香りをもつひとがいる。

長年の友人のS子ちゃんで、私はいつかこのふたりを引き合わせたいと思っている。


トリートメントを受けながら、すっかりリラックスしきって、よだれが出そうなくらいになって、そんななかでぼんやり「手当て」を想い、H子ちゃん、S子ちゃんを想い、私も受けるばかりでなく、もう少し「手当てをする」ことを意識したいものだ……、と、そんなふうに考えていた。


あんまりきもちがよかったから、サロンでマッサージオイルを購入、まずは自分の身体で手当ての練習。

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