■「ポルトガル、夏の終わり」と精神の姿勢
「ポルトガル、夏の終わり」を観に行った。
大好きな女優、イザベル・ユペール主演ということで以前より楽しみにしていた。
同じくユペールファンのりきちゃん(「よいこの映画時間」でおなじみの、りきマルソー)と一緒に行こうと約束していたのだけれど、映画の時間とふたりのスケジュールがなかなか合わなくて諦めかけていたときに、ぴょんとすべてのタイミングが一致して夜の銀座。
観終わった直後は、ぼんやり、もやん。
ヒロインが余命わずかということを除いては、大きな事件が起きるわけでも、驚きの真実が明かされるでも、男女の激しい愛憎が描かれているわけでもない。淡々と、ある1日の情景が描かれてゆく。そう、たった1日の物語が。
舞台はポルトガルの避暑地シントラ。ポルトガルには私は行ったことがなく、行きたい国のひとつだったから、どんなふうに描き出されているのか興味があった。けれど、舞台はひとつの風景としてしか扱われていない。
それも私の、もやん、の理由のひとつ。
きっと、これはいい映画なのだと思う。でもいまひとつ感じない。きっと私の感性の問題なのだろう、しょんぼり、そんな感覚もあった。
ところが、これ、じわじわとくる。
翌日から、あるシーンがぱっと浮かんだかと思うと別のシーンが浮かぶ、といったかんじで、私から離れない。
ユペールの美しさ、とくにこの映画では衣装がすばらしくて、目が釘付けになるような配色の美しい服をユペールは着ている。
そしてユペール! 彼女自身の美しさ。67歳、ってこんなに美しくいられるのか。
この映画の彼女から私が受け取ったのは、年齢を感じさせないたたずまいは、そのひとの意識にある、ということ。私はもうこの歳だから、なんて、ぜーんぜん思っていないし、そんな感じ方、彼女の辞書にない。だから年齢を感じない。もちろん近くでじっと見れば、それ相応のシワもあるのだけど、たたずまいが、中目黒あたりを背中まるめて歩いている十代二十代の子たちより生に満ちている。
姿勢もよいのだけれど、姿勢が重要なのではない。なんだろう、精神の姿勢、とでも表現すべきかな、そんなかんじ。
監督はアイラ・サックス。
私は彼を知らなかった。これがアイラ・サックス初体験。
映画を見終わったのちに知った。
監督の作品を観てユペールからラブコールを送り、監督がユペールのために脚本を書いた映画だということを。出会いから4年後にようやく実現したのだということを。
りきちゃんがいつものように映画のパンフを買っていたから、私はいつものようにせこく、気になるところを写真に撮らせてもらった。
ふたりでパンフを眺めながら話をしていたとき、りきちゃんが読み上げてくれた箇所に、はっとした。
「シントラは発見の町です。角を曲がった先に何があるのか予測できません。ところが登場人物たちは目に見えるものの一部にしか関心を向けていないのです。自分が見ているものについて、ほとんど話し合うことがありません。それはこの映画が表す二分性のひとつです。彼らは異国の地にありながら、その土地に気をとられて我を忘れることがありません。それどころか、ほとんど気に留めることすらしません。山頂に登って、彼らは何をするのか……踵を返して戻ります。ポルトガル語で言う「ミラドウロ(展望台)」からの眺めを目にして、人生が立ち止まることはないのです。」
これ、ラストシーン。
「ペニーニャの聖域」と呼ばれているところ。そして、私がほんとに不思議に思って、映画が終わったあと、おもいきり取り残されたシーン。ラストで取り残されるってせつない。
でも、りきちゃんが読み上げてくれるのを聞いて、ああ、そうか、と、ひどく胸をうたれた。
有名な美しい避暑地ですら、自分の人生でいっぱいいっぱいの人間にとっては、そう、どんなに美しい風景も、視界には入ってはいるものの、「見る」ことがないのだ。
何かを「見る」ということ。このところの私のテーマともかぶって、ほんとうに、これは貴重な体験だった。
「見る」というのはやはり心の動きなのだということ。「視界に入っている」のと「見る」、ましてや「見つめる」というのは、まったく違うということ。関心がそこにあるかどうか。それは風景だけではない、人に対しても、まったく同じ。
あともうひとつ。
ヒロインが友人に言うセリフ、何度も繰り返されるセリフがある。
ーー探す前に発見せよ。
「探す」ことと「発見する」ことの違いについて考えた。
この言葉は私が好きなピカソの「探すのではない。出会うのだ」とも似ている。
私が好きなぼろぼろの「新明鏡国語辞典」の力を借りてみよう。
探す=(ほしい、必要とするものを見つけようとして)大体の見当をつけた所を、見落としの無いようによく調べる。
発見する=世間にまだ知られていない、物事の存在(価値・効用)をはじめて見つけ出すこと。
……。
ううん。なんとなくわかる、ような、気が、する、かな。
要するに、探すって行為は、もうあるのね、目的地みたいなのが。そこに至るまでの道を歩いている、そんなイメージね。
発見は、目的地が、ないのね。目的地に向かって歩いているのではないイメージね。でも、意識がないと、それこそ「見る」ことができないわけだから、意識はもって、歩いているのね。
違うかな。
さて。(もっと考える場面よね、でも怠慢させて)
イザベル・ユペールがラブコールした監督アイラ・サックスに興味をもち、『人生は小説より奇なり』を先日鑑賞。ちょうどアマゾンプライムであったから。そしてこれがよかった。
「きみは人を愛したことがあるか?」
というセリフがみょうに残っている。
「ポルトガル、夏の終わり」、もう一回観たいな。
***
このところ「路子倶楽部」の投稿ばかり。でも、すごくやりがいがある。支えてくださっているみなさま。ありがとうございます。ユペール演じるヒロインではないけれど、余命が数ヶ月、となったとき私は何をするのか、ということを考えたとき、いましていることはすべきこと、と思えます。
「ポルトガル、夏の終わり」予告編をどうぞ。