●美術エッセイ『彼女だけの名画』20:ウィーン、大観覧車の「家族」
2025/11/10
薄いグレーの空が広がる3月のウィーン。
オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男」の舞台となった大観覧車に乗りたくて、石畳の道をプラーター公園へと歩いた。
夕暮れ時。
観覧車のチケット売り場前には5、6人の列ができていた。私の前には若い夫婦がベビーカーに子どもを乗せて並んでいた。レースのカバーの中を覗きこむとほんとうに愛らしい赤ちゃんが澄んだ瞳でじっと私を見つめた。
母親の女性が私ににこりと笑いかけた。穏やかな人柄を感じさせるその様子に温かな気持ちを抱きながら私はその家族をぼんやり見ていた。
それまで背中だけで顔が見えなかった父親の男性が煙草を吸うために列を離れた。彼は白い煙を吐きながら、ゆっくりと回る大観覧車を見上げた。その彼の横顔を見た瞬間、それまでの温かな気持ちが一瞬にして冷えた。
その横顔は、はっきりと退屈していた。
愛らしい子どもと穏やかな雰囲気の母親、煙草を吸う男性。
彼らはまったく別の世界にいるみたいだった。
彼は幸福ではないのだろうか。そしてベビーカーとともにいる彼女は、彼の様子に気づいているのだろうか。
どうでもいいことじゃないの。
と思いつつも気になってしかたがなかった。
そして、結婚相手のこんな横顔を見てしまうような結婚ならしたくない、そう思った。
脳裏に、オーストリア美術館で観てきたばかりの「家族」が浮かんだ。
その絵を目の前にした瞬間、背中にひんやりとした刃先がすべりおちたようになった。
なんという絵。
自分自身だけを見つめる画家。その前に座る画家の妻の絶望的な瞳、救いようがない。彼女の足もとで甘える子どものあどけない瞳とのギャップで際立つ彼女の暗い表情は、まさにこの直後の彼らの運命。
この絵が描かれた年に、妊娠中の妻エディットとシーレはスペイン風邪で亡くなった。
これが描かれたとき、子どもはまだ生まれてはいなかった。彼は生まれる予定の子どもを描いたということか。
なぜ。
誕生の幸せを待ちきれずに? でも、もしそうだとしたら、妻エディットの顔がこんなに沈んでいる理由は?
シーレは、家族という温かなものに包容されたい、という理由で彼女と結婚した。自分とよく似たエキセントリックな恋人ヴァリーを捨てて、家庭的な女性を選んだのだ。彼女とであれば自分の望む結婚生活ができると、自分の望む幸福が入ると、そのときは信じて。
「平凡な結婚がしたい」
結婚を考え始めるひとが多い年齢のせいか、こんな呟きを友人知人たちからよく聞くようになった。
平凡な結婚。
なにが平凡でなにが非凡かはわからないが、とにかく、自分が思うところの「平凡な結婚」を難なく手に入れられるひともいれば、切望しつつも、手に入れることができないひともいる。
望めば望むほど欲しいものは遠くなってゆくものかもしれない、周囲のひとたちを眺めているとそんなふうにも思う。
ただ、たいせつなのは、彼らの言う「平凡」がイコール「幸福」なのか、ということだ。安息を求めて「平凡な結婚」をした友人が、それが自分の望む「幸福」ではなかったことに気づき、平凡とはどう見ても真逆の状況を招いた例を私は知っている。
シーレも気づいていたのではないか。
結婚して3年。3年という月日は、それを気づかせるのに充分すぎる時間だ。
そこに身をおいてみて、体験して、彼は、自分が選んだ道が己の幸福とは遠いところにあると気づき、それを認めたのではないか。だからこの絵を描いた。私はそう思う。
観覧車を待つ「家族」。ベビーカーの赤ちゃんがまた私に笑いかける。その笑顔に、あなたたちをシーレの「家族」に重ねてしまってごめんなさい、とこころで詫びて、ゆったりと回る観覧車を見上げ、結婚して子どもを産むということ、を考えた。
恋人の顔が浮かんだけれど、ぼんやりとしていて、はっきりとした輪郭はなかった。
***
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
シーレについてはいろんなところで書いています。書籍としては「美神(ミューズ)の恋」と「美男子美術館」。
絵はエゴン・シーレの「家族」。
