絶筆美術館

★絶筆美術館7:マティス『ロザリオ礼拝堂』

2025/11/18

 

 

 マティスの絶筆は「ロザリオ礼拝堂」、私はそう思う。

 実際にはその後、たとえば死の前年の『青い裸婦』や『花束』といった切り絵を制作しているし、亡くなる直前まで取り組んでいた教会の花窓のデザインがある。この花窓のデザインが「マティス最後の作品」なのだとされることもあるけれど、アメリカのロックフェラー家からの度重なる依頼で制作していたもので、結局完成させることなく亡くなっている。遺族の承諾を得てマティスの作品としての花窓、となっているものの、これを絶筆とするのは違うだろう。

 マティス自ら「この礼拝堂は仕事に専心した我が人生の集大成を意味する」と言ったロザリオ礼拝堂の壁画、ステンドグラスの装飾こそ、マティスの芸術的絶筆というにふさわしい。

 一九四八年から一九五一年まで、四年間かかり、献納されたのは一九五一年六月。亡くなる三年前のことだ。

 

 南フランス、ヴァンスという小さな丘の町の礼拝堂。そこにマティスの作品が飾られているというのではない。礼拝堂がまるまるマティス作品となっている。

 

 

 このためだけにヴァンスを訪れる人もいるくらいで、私もその一人、マティスのロザリオ礼拝堂のためだけに、ヴァンスを訪れた。

 もう二十年も前のこと、ニースからバスで一時間、雨が降っていて、かなり濡れて教会にたどりついたら、なぜか閉まっていた。周囲をうろうろ、中を覗きこんで人の姿を探したりしたけれど無人で、でも諦めきれずに誰か来るのを待っていた。

 友人とふたり旅だった。私たちは無言のまま、外壁に描かれた「聖母子と聖ドミニコ」の線画を見つめた。ひたすらに見つめた。残念無念で声が出なかったのではない。厳粛ななかに、かぎりなくやわらかなものがあって、いつまでも眺めていたかった。

 

 緑と黄色と青で構成されたステンドグラスがもたらす荘厳で柔らかな光の揺らぎ、これは、実際礼拝堂を訪れた人にしかわからない美的体験だと言われる。

 壁画は花がちりばめられたなかに『聖母子』、『十字架への道』、創設者である『聖ドミニコ』などがある。いずれも、これぞマティス、ともいうべきラインで描かれている。

 なかでも『聖母子』に私は惹かれる。なぜならアンリ・マティスという人を思うとき、壁画のなかでこの『聖母子』がもっともマティス的だと思うからだ。

 

 そして、マティスが人生の最後に描いた作品のひとつがこの絵だったと思うと、じんわりと胸があたたくなる。慈愛、という言葉を想う。

 

 ひりひりした刺激ではなく、やわらかな抱擁を求めるとき、私はマティスの礼拝堂の写真集を広げる。

■特別な事件がない人生だけど、ミューズはいっぱい

「私の人生にはこれといった事件がないからとても簡単に話せる」とマティスは言った。

 三十六歳で、型破りな色彩表現で注目を浴び、「フォーヴィズム(野獣派)」の中心的人物となる。彼らは色彩を見たままに再現するのではなく、感情表現の手段とした。

 以後マティスはその時代を牽引する画家の一人となる。力のあるコレクターもついて、四十歳になるころには裕福な生活ができるようになり、八十四歳で亡くなるまで、ぶれない成功画家人生を送ったと言っていいだろう。

 その人柄は穏やかで堅実。外見も穏やかで堅実。まるで学者のよう。晩年はある境地にいたった仙人のようでもある。

 けれど、彼は女性が大好き。生涯に何人かのミューズが存在する。

 同時代の画家で友人でもあったピカソが肉食、マティスは草食というイメージがあるけれど、マティスはピカソのようにそれを売りにしなかったし、ピカソのように女性を破壊したりせず、彼女たちとはソフトな関係であったから表に出ないだけのことで、インスピレーションの源は、はっきり、好みの女性たちだった。

 長い間、マティスのミューズとしてゆるぎない地位を保ち続けたのが妻のアメリーで、結婚は一八九八年、画家になると決意した八年後、二十九歳のときだ。翌年にジャン、続けてピエール誕生。この息子たちのほかにもう一人、息子より年長の娘がいた。マティスの連れ子で、アメリー以前の女性との間に生まれた子だった。マルグリットという名のこの娘は、マティスにとって重要な人物で、最後の最後までそばにいた。

 四十年近くマティスのミューズであった妻アメリーからその地位を奪ったのが秘書のリディア・デレクトルスカヤで、彼女は一九三五年ころからマティスの作品に現われ始める。マティスは六十六歳、リディアは四十一歳年下の二十五歳。数年後にはマティス夫妻は別居し、それからおよそ十五年、マティスが死ぬまでリディアは一緒だった。

 晩年のマティスを語るときにリディアは無視できない。重要人物だ。

 

 

■第二の人生

 マティスが礼拝堂の仕事を引き受けたのは、八十歳になろうというときだが、じつはマティスはキリスト教徒ではない。その彼がなぜ礼拝堂の仕事を引き受けたのか。友人のピカソはさんざん、そのことをなじっている。

 しかしマティスには確固たる信念があったから、ピカソにどんなふうに言われても揺るがなかった。

 このあたりの話と、直接ではないけれど、関係があると考えられることがある。

 

 八年前にマティスは生死をさまよっているのだ。七十二歳のときのこと。

 時代は一九四一年、第二次世界大戦の真只中、マティスは十二指腸癌に加えて、肺にできた二つの塞栓症を引き起こし、重体となっていた。

 このときマティスは医師に言った。

「あと三年か四年私にください。生涯の仕事の仕上げをするのにどうしても必要な時間なのです」

 

 マティスは生還した。大手術を乗り切ったことは、まさに奇跡的な出来事だった。マティスはこの奇跡を「再生」ととらえ、残りの人生の充実を図った。

 自らの仕事、芸術を極めるために、猶予を与えられた命を捧げたのだ。

 そういう意味で、一九四一年に「マティスの第二の人生」が始まった、なんて言われたりもする。

 この大手術という経験は肉体を消耗させ、しかし、その結果、マティス芸術に新たな道を開いた。

 切り絵だ。ほとんどベッドで横になっていたから油絵が描ける状態ではなく、弱った身体で何ができるかを考えて生まれたアイデアだった。

 リディアをはじめとする女性たちの手を借りて、さまざまな大きさの紙を鮮やかな色で塗り、それから鋏を手にして鮮やかな色紙を切り始める。修正がきかない、一発勝負の、ひじょうに集中力を必要とする仕事だった。切り抜かれたものは壁という壁にはりつけ、色の組み合わせ、形、空間などの研究に夢中になった。そしてこの切り絵の技法は、のちの礼拝堂のステンドグラスを装飾するときに、この上ない効果を発揮することになる。

 南フランス、ニース北部のホテル・レジーナのスイートルームで、ここが空襲を受けてからはヴァンスの別荘ル・レーヴで、彼は制作に集中した。

 晩年のマティスの生活はひじょうに規則正しかった。

 一日は八時からスタート。しかし手術後は、起き上がるのは一日に一、二時間。ほとんど寝たきりだった。

 

 礼拝堂の仕事の話がもたらされたのは、戦争が終わって三年後。マティス七十八歳、大手術からは六年が経っていた。

 その話をもってきたのは、かつてマティスがかわいがっていた女性だった。手術後のマティスの看護をしていたモニックという名の女性で、修道女となり、ジャック・マリーと名乗っていた。

 ドミニコ会の「ロザリオ礼拝堂」の建築計画について彼女はマティスに相談したのだった。この礼拝堂の名は、十二世紀スペインの聖人ドミニコ(ドミニコ会の創始者)が祈祷中に聖母マリアが現れてロザリオ(祈りのための数珠)を与えた、という言い伝えからきている。

 礼拝堂を建築する予定地はマティスの別荘ル・レーヴ荘のすぐ近くにあった。

 マティスはこの計画に強い興味を示し、この礼拝堂の仕事を自ら希望した。

 面白いのは建築家にル・コルビジェの名が挙がったとき、マティスがこれを拒んだことだ。彼は長年の知り合いである建築家のオーギュスト・ペレを指名した。彼なら自分が思うように動いてくれると思ったからだ。たしかにル・コルビジェだったらふたつの個性がぶつかり合い、大変なことになっていただろう。

 

■なぜキリスト者ではないあなたがそれをするのか

 さて、礼拝堂のことを知ったピカソは、かなりしつこくマティスにかみついている。

 このふたりの芸術家のやりとりは、ひじょうに興味深い。このやりとりを記録してくれたのは、フランソワーズ・ジロー。『マティスとピカソ 芸術家の友情』という本を書いてくれた。

 フランソワーズ・ジローといえば「ピカソを捨てた唯一の女性」として有名な人。ピカソより四十歳も年下で、十年間ピカソと暮らし、二人の子供を産み、そしてピカソのもとから去った。自身も画家として活躍、たいへん聡明で強い人だ。

「ピカソの恋人としてマティスを訪問する」だなんて、しかもマティスからとても可愛いがられたなんて、そんなミラクル経験をした女性は、世界中でフランソワーズただ一人だろう。

 よくぞ書いてくれたと思うし、じっさい素晴らしい本だ。

 目撃者ならではの説得力に彼女の知性と感受性が加わって、二人の天才たちの駆け引き、ライバル意識、友情が、そして生身の、それはもういきいきとしたマティスが描かれている。

 ピカソとマティスは十二歳の年の差があった。

 マティスのほうが上で、はじめてフランソワーズがピカソに連れられてマティスを訪問したのが一九四六年、ピカソ六十五歳、マティス七十六歳。マティスはリディアと暮らしていた。

 この二人の芸術家の間には、お互いの仕事を認めた上での確かな友情があった。お互いの作品を尊敬し、作品交換もする間柄だった。

 年齢のせいなのか、性格か、それとも組み合わせなのか、マティスのほうに余裕があったとフランソワーズは見ている。マティスはピカソを刺激してその反応を楽しんでいたようなところがあり、その刺激の仕方が絶妙で、ピカソを怒らせることなくピカソの内面を撹拌するようで、マティスの前では、ピカソがかわいい男の子のように見えてしまう。

「私かマティスか、どちらかが死んだら、残されたほうは誰にも言えないことを心に抱え込むことになるだろうな」とピカソは言った。お互いがお互いにとってどんな存在だったのか、よくわかる。

 フランソワーズがピカソと一緒にいたのは十年間。

 この期間がマティスの晩年の十年間と重なっていて、ロザリオ礼拝堂の仕事についてもフランソワーズの詳細な観察記録があるので、ほんとに貴重だ。

 礼拝堂の仕事を引き受けたと知ったピカソはマティスにかみついた。

「信じられない、いったいどうして? あなたはキリスト教の信者になったというのか。無神論者じゃなかったのか」

 マティスは言った。

「信者になったわけではない。私は個人的にはいかなる信仰ももたない。ただ、私は瞑想をするから、つねに平安を求めるということでいえば仏教徒に近いかもしれないな。礼拝堂の仕事は、今までにしたことがない新しい種類のものだからやるんだ。君にもわかるだろう。これは芸術的なチャレンジのひとつなんだよ」

 ピカソは引き下がらない。

「敬虔なカトリック信者であるジョルジュ・ルオーやモーリス・ドニがやるならわかるし、批判もしない。でも、信者でない人間が教会の仕事を引き受けるなんて理解できないし、それは芸術家として、してはいけないことではないか」

 ピカソはマティスのことを「神をもたないゴッホ」と呼んでいた。

 これはゴッホが敬虔なキリスト教信者だったこと、ゴッホも色彩の画家であることから来ている言葉なのだが、要するに、それほどまでに、ピカソのなかではマティスとキリスト教は、かけはなれたものだったのだ。

 ピカソがこだわったことについては、当時の多くの人も問題にしたことだろう。

 なぜ、無神論者のマティスが、礼拝堂を?

 

■特定の神ではなく、普遍的な祈り

 私の考えでは、マティスはここにキリスト教信仰を描いていない。

 ロザリオ礼拝堂を構成するステンドグラスの模様、そしていくつかの壁画を見ても、キリスト教を感じない。

「ここは礼拝堂である」という情報を与えられずに、『聖ドミニコ』や『聖母子』、そして外壁にある『聖ドミニコと聖母子』を観て、たとえば、これは仏教の世界感を表しているのです、ヒンドゥーの世界です、イスラムです、そのどれを言われても、それはそれで頷けるのではないかという気がする。

 それはマティスが極限までシンプルにすることで対象を抽象化してしまったからなのだが、その意図はやはり、マティスはここでキリスト教だけを、聖ドミニコだけを、讃えようというつもりがなかったからではないか。

 

 マティスの言葉に耳を傾けてみよう。集中して。

「私は自分の作品が深い幸福感を呼び起こし、魂を慰め浄化し、安定と調和の感覚を生み出すことを願っている」

 礼拝堂について。

「この仕事は自分で選んだものではなく、私が探究を続けていた道の最後に待ち受けていた運命によって、私のほうが選ばれた仕事なのだ」

 私はこの言葉に、彼が癌の手術で生死の境をさまよい、奇跡の復活を遂げたことを思う。

 また、こんな言葉もある。

「仕事をしているときの私は神を信じている」

 ただし、この「神」はおそらくキリスト教だけの神ではない。

 礼拝堂の仕事を依頼したドミニコ修道会のクーチュリエ神父の意見にマティスは共感していた。神父は言った。

「芸術家がどのような政治的選択、および哲学的考察をしようとも、絵を描くという行為は、それが心の底から生まれた欲求であるかぎり、宗教的な行為なのでしょう」

 

 やはりマティスが表現しようとしたのは、全人類に普遍の、幸福感、安定と調和、魂の浄化を願う心なのだろう。ここを訪れた人にそれを与えたいという願いなのだろう。

 そのためには、その手段がキリスト教であってもいいけれども、キリスト教でなくてもいいのだ。

 フランソワーズも、似たことを言っている。

 マティスが礼拝堂の神父のためにデザインした祭服の試作品を見ての感想。

「シンプルなのに、至高の存在を感じさせる明快な何かがあった。十字架は描かれていたが、そのほかにはカトリックを連想させるデザインはいっさい使われていなかった。訴えかけてくるものは力強く圧倒的だった。それらの作品は“神聖なる生命”をあらわし、特定の宗教や教団を示してはいなかった」

 礼拝堂も同じなのではないか。

 だからこそ、礼拝堂の壁画の一つ、『十字架への道』の制作は難航したのだろう。キリストが磔刑されるまでのことを描いたこの図は、マティスが本来表現したいことではなかったからだ。

 

■深い幸福感、聖母子

 花のなかの『聖母子』は、ほんとうに、いつまでも観ていたい絵だ。

 縦三メートルもあるこの絵を、長い棒の先に木炭をつけて描いているマティスの写真がある。車椅子に座ったまま、ときおりそこから立ち上がって描いていた。

 この絵についてマティスが構想を練っていたときのことがフランソワーズへの手紙にある。

 フランソワーズが二人目の子ども、娘のパロマを出産したことへのお祝いの手紙だ。そこには、出産おめでとう、という内容の文章に続いて次のような興味深い内容が書かれている。

「不思議なことがあるものです。この二、三週間というもの、私は腰かけた若い母親とその膝に抱かれた赤ちゃんの絵に取り組んでいました。そう、座っているのに、この母親は高さ三メートルもあります。

この母親を特定の誰かに似せようなどというつもりはなく、ただイメージを構築することだけに関心があったのですが、数日前、リディアがこんなことを言いました。

ーーこの絵を見ていると、フランソワーズと赤ちゃんのことを思い出すわ。

 リディアの言うこともあながち間違いとは思えません。けれど、絵はまだ制作の途中なので、たぶん完成までには、もっと普遍的なイメージに還元されることでしょう」

 リディアが思い浮かべたのはフランソワーズとピカソの最初の子、クロード。マティスはクロードをとても可愛がっていた。

 

 この手紙でマティスが言った通り、長きにわたって毎日手を入れられ、完成した聖母子は、極限までシンプルになり、特定の誰かをあらわすのではなく普遍的なメッセージを伝えている。
 これぞマティス、と言いたいような「花」が軽やかに取り囲み、母と子を祝福し、守っている。

 女性という存在を愛し、尊重していたマティスが描いた母と子。その手紙に告白されているように、身近にいた母と子をイメージして描き始めたところからも、つまり、聖書からのスタートではないことからも、やはりキリスト教を超えたところに、この作品はあるのだと私は思う。

 命を生むということ、新しい命が生まれるということ、無条件の、最強の愛を表現している。

「深い幸福感を呼び起こし、魂を慰め浄化し、安定と調和の感覚を生み出す」、そんな作品を描きたいと言っていたマティスはこの絵を描いていたとき、まさに彼自身がその状態にあったのではないか。

 ロザリオ礼拝堂の仕事は四年間かかった。完成したときマティスは八十二歳。

 仕事を終えたマティスは言った。

「この礼拝堂は仕事に専心した我が人生の集大成を意味する。きつくて困難な仕事であったが、すばらしい仕事であった」

 

 一九五三年八月二十五日、亡くなるおよそ一年前、『ルック』誌に掲載された「マティス、二十の質問に答える」というタイトルの一問一答には、その短い、短すぎる回答のなかに、マティスという人が確固として存在している。

――ご自分の絵を子どもに説明するとしたら、どのように説明しますか?

――好きか嫌いか、どちらかを選ばせます。

――世俗的なテーマと宗教的なテーマ、どちらを描くときが創造の喜びを感じますか?

――どんなテーマでも、人間的感情によって描きます。

――これまでの生涯のなかで、どの時期が最も創造的だったと思われますか?

――どの時期もそれなりに大切でしたが、敢えて言いましょう。それは現在です。

――現代美術はどの方向に向かうと思いますか?

――光の方向でしょう。

 

 死の直前にマティスは言った。

「美を創造するためには、真実をめざす絶えざる努力、無私の精神、奥深い探求、インスピレーション、それらすべてを支えることのできる大いなる愛がなければならない」

 一九五四年十一月三日にマティスはニースで亡くなった。礼拝堂完成から二年後のことだった。八十四歳。

 死の前年に、現在が最も創造的なのだと、現代美術は光の方向に向かうだろうと言えた画家の最期は、ちょっと、できすぎなくらいに幸福だったように思う。

 すべきことをしたという満たされた思いのなかで死を迎えるなんて。

 

 

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*主な参考文献

「マティスとピカソ 芸術家の友情」フランソワーズ・ジロー著、野中邦子訳 河出書房新社(1993)

「週刊グレートアーティスト マティス」同朋舎出版 (1990)

「タッシェン アンリ・マティス」フォルクマール・エッサース著 ベネティクト・タッシェン出版(1993)

「知の再発見双書 マティス」グザヴィエ・ジラール著 高階秀爾監修 田辺希久子訳(1995)

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