○女性芸術家7「グウェン・ジョン」
2025/11/22
■グウェン・ジョン(1876-1939)
*「自画像」1902年(26歳)
画家。イギリスに生まれる。ロンドンの美術学校で学び、その後パリへ。弟のオーガストも当時は注目されていた画家であったが、彼は姉の才能を見抜き、「わたしは死後50年も経つころにはグウェン・ジョンの弟としてしか人々の記憶に残らないだろう」と言っていた。
*1996年「芸術倶楽部」に連載した記事です。
今回紹介の室内画はほんとうに好き。
このところ「幸福」について考えることが多い。
いままでの私の幸福感は、浅はかさを恥じつつ言えば、名声、成功、派手、刺激といったイメージで、それがこのところ変化したようで、いや、そうではなくてもっと奥深くもっと身近でもっと単純なものではないか、と考えているのだ。
つきつめるとわからなくなって迷宮のなか、どうにもならなくなってしまう夜もあったりする。
彼女、グウェン・ジョンの絵に出合ったのはそんなある夜のことだった。
画集での出合いではあったけれど、それは『パリの芸術家の部屋の一隅』というタイトルの室内画で、私はそれを見た瞬間、ふんわりと幸福の空気を感じた。
なぜだろう。
彼女について知りたくなった。
画家、グウェン・ジョン。
彼女はこんにち、20世紀イギリスにおける大画家のひとりとして認められている。
彼女が好んで描いたのは、私が惹かれたような室内画や女性の肖像画。同じテーマを繰り返し描く画家だった。
徹底して世間から孤立し、粗末な小屋で隠遁者のような生活を送った。周りの人間はその質素な暮らしぶりを心配したが、それは彼女が選んだ生活だった。
モノを所有することに興味がなく、ただ宗教と芸術に生涯を捧げた。
同時代の芸術家たちの動向にもまったく関心を示さなかったが、そんな彼女の人生に女の艶を与えた芸術家がひとりだけいた。
彫刻家ロダンだ。
20代の終わりに彼女はロダンのモデルとして彼に出逢った。ロダンは63歳で、富と名声をかかえきれないほど手にし、何人かの愛人もいた。グウェン・ジョンはロダンに惹かれ、ロダンも彼女にふかい愛情を寄せた。
グウェン・ジョンとロダンとの関係で驚かされるのは彼女の情熱だ。彼女はロダンに宛てた莫大な量の手紙を書いた。1日に3通書いたこともあるという。
ロダンがひとりでいることを知っているときは手紙を自ら届けることもした。一方で彼にすこしでも冷たくされるとショックで食事ができなくなり、病に臥した。
ふだん、人々との交流を避けているぶん、愛情をいだいたひとには彼女がもちうる情熱のすべてを向けてしまうのだろう。
私には彼女の感情がわかるような気がする。
愛人としての期間は7、8年であったが、であいから13年後、ロダンが亡くなるまでふたりの親交は続いた。
ロダンの死後、彼女は信仰にさらに熱を入れ、なにより孤独を求めた。
教会へゆき、そして絵を描く、そんな毎日が続いた。
63歳のある日、彼女はとつぜん海が見たくなった。すでに彼女の体は病に冒されていた。
列車に乗ってディエップに向かったが、着いたとたんに倒れ、2週間後、息をひきとる。家の猫たちの餌はきちんと用意してあったという。
つつましくひそやかな生活。けれど絵を描くことへのつよい想いとロダンへ捧げられた情熱、外部の何ものにも左右されない、ある意味頑固な生き方。
ふとフランスの作家ジッドの小説『狭き門』を思い出した。
アリサという女主人公の姿とグウェン・ジョンとが重なった。詳しく語ると話がそれてしまうので、印象に残ったアリサのセリフを紹介する。
「……ああ、《幸福》と呼ばれるものはどうしてこれほど魂と関係の深いものなのでしょう。そして外部からそれを形作っているかに見える諸々のものは、なんと価値がないのでしょう……」
私たちは「外部からそれを形作っているかに見える諸々のもの」に価値を置きすぎてはいないだろうか。それは幸福ではなく、その付随物にすぎないのに。
グウェン・ジョンはアリサと似た感覚をもっていたのだろうと想像する。室内画にそれがあらわれている。
そして変わりつつある私の幸福感が、グウェン・ジョンの、一枚の室内画に幸福の空気を見させのだろう。
彼女の室内画に惹かれたのには理由があったのだ。
***
ジッドの小説、アリサのセリフは「うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ」の幸福の章でも引用しました。当時はとても胸に刺さったのでしょう。
それにしても、やはり、この室内画はいい。

