言葉美術館

■割れたコップ■

2026/02/27

110130_113001

私は、よく食器を割る。

たぶん食器を洗っているときというのは、ぼんやりタイムなのだろうと思う。

つい先日も、コップを割ってしまった。ホーローのシンクのなかでこつんと倒れただけなのに、割れちゃった。

娘が大事にしている、毎朝オリジナルマンゴージュースを飲む小さなコップだった。

「あ。ごめん、割っちゃった」

とつぶやくように言う私の声に、ダイニングで新聞を広げていた娘がたたた、とやってきた。

「ごめん、大切にしていたコップ、倒れただけなのに、割れちゃった」

と私はまたつぶやくように言った。

「だいじょうぶ? 手、切らなかった? きっと割れやすい状態になっていたんだね、いいよいいよ」

と彼女は言った。

娘の名を呼んで私は「ありがと」と言った。

自分の失敗をすぐに許されたことへの安堵と、そこに漂うあたたかさを感じて泣きそうになってしまった。

そして次の瞬間、ふだんの自分の姿、人の失敗を許せない狭量さと、それを責めるときの容赦のない口調などが脳裏に映像とともにくっきりと浮かんだ。

逆だったら、ぜったいに同じような対応はできなかった。間違いない。きっと、注意力散漫なことを叱っていたと思う。エネルギーを使って、そうしていたと思う。

この小さな出来事をきっかけにぐるぐると頭が回りはじめた。
限られた人生という時間のなかで、大切な人に対してエネルギーを注ぎたいこと、注ぐべきこと、たくさんたくさんあるというのに、命の時間制限を設けられたらそれこそ、がむしゃらにそうしたいことがたくさんあるはずなのに、私は普段なんと瑣末な別のことにエネルギーを使っているのか。

私はいままでの人生で大切なコップをいくつ割ってきただろう。

そのたびに幾度許されてきただろう、幾度許されずにきただろう。

これからいくつ割ってしまうだろう。

-言葉美術館