○女性芸術家5「カミーユ・クローデル おまけ:ロダンについてのエッセイ」
2025/11/22
■カミーユ・クローデル(1864-1943)
フランス北部の寒村フェール・アン・タルドノワ生まれ。
11歳のころから作品を作り始める。1883年、19歳のときロダンと出逢い、師弟、恋愛関係で結ばれた。
出逢ったときロダンは42歳。カミーユと23の歳の差があった。そして内縁の妻ローズがいた。穏やかなローズ、刺激的なカミーユ、ロダンはどちらかを選ぶことができず、15年間いわゆる三角関係は続いた。
カミーユ30代の半ば、ロダンはカミーユと別れ、ローズを選ぶ。カミーユはロダンに裏切られた思いのなか、それでも芸術で認められようとするが、次第に精神不安定になり、自分の作品を破壊したりし始めるのは40代になったころ。49歳のとき、唯一の理解者であった父親が亡くなったことで統合失調症を発症。家族(母、弟、妹)たちによって精神病院に強制的に入院させられる。以後、30年間を精神病院で過ごし、78歳で亡くなる。何度も退院を懇願したが叶わなかった。
カミーユの入院中、カミーユと仲の悪かった母親は一度も見舞いをせず、妹も1度か2度。弟のポール・クローデルは詩人、外交官として活躍したひとだが、姉に理解を示すものの、最後まで退院を許可しなかった。私はこのポール・クローデルの行動がかなしい。
30年にわたる拘禁生活を強いられたカミーユ。入院してからは創作はしなかった。
*1995年「藝術倶楽部」に連載したものと、1996、97年ころ「FRaU」の連載のなかであつかったロダン(書籍「美男子美術館」に掲載したなかったもの)をふたつ、ここに掲載します。重複するところもありますが。
*1893年カミーユ・クローデル作「ワルツ」
(ロダンとであって10年が経ったころ、29歳のときの作品。あやういワルツ」
■唯一のひとに裏切られたとき
カミーユ・クローデル。この「女性芸術家の悲劇的生涯」に私たち、いや、私自身がこれほどまでに興味をかきたてられるのはなぜだろう。おそらく、「芸術家」といった存在にある種のイメージ(芸術家とはこうでなくては。苦悩の果てに生み出されるものこそ真の芸術作品なのだ!みたいな)をもっているからだろう。
もちろん、そんなのは芸術家のひとつのタイプにすぎない。しかし、それでもやはり「悲劇」とか「破滅的」といった言葉には抗い難い魅力がある。
カミーユ・クローデルについては、多くの文献があり、7年前には彼女の生涯を描いた映画も公開された。(*1988年公開の「カミーユ・クローデル」。イザベル・アジャーニがカミーユを、ジェラール・ドパルデューがロダンを演じた)
ロダンとの愛憎劇、精神病院収容に至る狂気との闘い。その部分がきっとカミーユ・クローデル人気のひとつの要素となっている。いまや彼女の名は多くの人の知るところとなったが、彼女の作品がようやく再評価されるようになったのは、ほんの10数年前。彼女が亡くなってから40年以上が経ってからだ。
同じ女性としての立場でカミーユ・クローデルの人生を見たとき、私の心に一番響くのは、彼女がひとりの芸術家として認められようともがき、苦しむ姿。
ロダンの子どもを中絶したあとの姿。
妻子あるロダンを独占できない自分(女としての絶望)、愛した男の子どもを生むことが許されない自分(母としての絶望)。ここで芸術家として認められなければ自分自身の存在理由がない。そんな焦りがあったと言われる時期の姿だ。
このときのカミーユは20代後半。現在の私と同じ歳のころ、と思えばよけいに想い入れが深くなる。
ロダンとカミーユの「愛の情熱」が同じテンションだったとき、たしかにふたりはそれぞれの「存在」、それだけで互いをインスパイアできた。
ロダンはカミーユに彫刻を教え、カミーユは若く鋭い感受性でロダンを刺激した。
けれど不幸なことに、男女の恋愛においては珍しくもないことであるが、決定的な違いがそこにはあった。
カミーユにとってロダンは全てであり、ロダンにとってカミーユは一部だったのだ。
一昨年のクリスマスの時期、パリのロダン美術館を訪れた。ロダンの作品は心底素晴らしく、いまにも動き出しそうな生命力を宿していた。
館内の作品のほとんどは彼のものだったが、カミーユの彫刻も展示されていた。
私に強く訴えかける何かがあった。
彼女の悲劇的な生涯がインプットされているせいだろうか。その彫刻の内部に彼女の涙が見えたような気がした。
館内をひと回りしてからもう一度その彫刻の前に立つ。
印象は変わらなかった。
彼女の姿が見える。
彼女が息づいている。
感じやすく、だからこそ傷つきやすい、そしてどこまでも危ないほどに一途な想い。
そばにあるロダンの彫刻を見る。
天才と天才の愛。それは激しく命削る恋愛だった。どちらかが倒れなければ終わることのない恋愛だった。しかし、その結晶作用はこんなにもすばらしい芸術作品を生み出したのだ。
「散ることを恐れずに思いきり咲く桜の花が好き」と言った人がいる。
カミーユの生き方は桜の花に似ているかもしれない。
たしかに精神病院に30年間も収容されたまま亡くなったその人生は悲惨で、想像するだけで息苦しくなる。けれど彼女がロダンと過ごした愛情と創作でいっぱいの日々。その日々、彼女は自分が持ちうるエネルギーを、先のことなど考えずに、すべて出した。その瞬間瞬間、限界まで出した。散ることを恐れず思いきり咲いたのだ。
(以上、私が29歳のころの記事)
*次に、FRaUの連載からロダンの記事を(これは30歳か31歳のころ)↓
この彫刻はロダン作。「パンセ(もの想い)」。カミーユがモデル。
■ロダン「男の誤算」
極限の愛。
たしか、そんな形容がされていたと思う。映画「カミーユ・クローデル」公開時のキャッチコピー。
ロダンとの愛と官能の日々からしだいに狂気に陥ってゆくカミーユ、その精神のうねりが見所のひとつだった。彼女が湿った夜の通りで「ロダーン!」と絶叫するシーンは目に焼きついている。
去っていった男の見えない背中に向かって叫ぶ、男の名。
ああ。痛々しい。でも自分も似たような経験、あるなあ。
そんなことをぼんやり想い、映画の内容を思い出していたら「危険な情事」をちらっと連想した。まったく別のタイプの映画なのに。
さて。
ロダンとカミーユ。
映画はタイトル通り、カミーユ側からふたりの関係が描かれている。だから、観たものはカミーユに同情し、その後の彼女の運命に胸を痛める。つまり、30年もの間、精神病院ですごし、ひっそりと亡くなったという事実に。
誰が観ても、悲劇の元凶はロダン。カミーユの若さと美しさと才能の美味しいとこどりをして、内縁の妻の元に帰っていった男。
それはひとつの真実。けれど私が知るロダンは、エネルギッシュで知的で、そして優しさを持ち合わせた男だ。カミーユとの恋愛を、ロダンの立場に立って考えてみた。
ふたりが出会ったのはロダン42歳、カミーユ19歳のとき。
すでに天才彫刻家としての名声と自信をもつロダンの前に現れた彫刻家志望の「匂い立つような美人」カミーユ。しかも彼女は、ロダンに出会う以前に「あなたはロダン氏のレッスンを受けたのですね」と言われたほどロダンと似た感性をもっていた。ふたりが惹かれ合うのは当然のことだった。
けれど、ロダンには彼を無名時代から支え続けてくれた内縁の妻ローズがいた。彼女はロダンを尊敬し、彼がいなければ生活できず、そして彼に捨てられることをなにより恐れている女性だった。
ロダンはローズを見捨てることができなかった。
「恋愛は生命の花です」とロダンは言った。
その言葉通り、彼は奔放にモデル、家政婦、さまざまな女性と関係をもったが、カミーユとの関係はいままでとまったく違っていた。
彼女の情熱と才能はロダンを痛いほどにインスパイアした。カミーユはロダンにとって「ともに美と真実を追求できる芸術上のパートナー」だったのだ。
芸術上のパートナー?
ひとりの男が彼女の全宇宙である女にとって、なんて残酷な言葉だろう。
ローズとは別れるつもりはない。カミーユともこのままの「いい関係」を保ってゆきたい。
でも、もしカミーユが去っていったら?
それもしかたがない。僕らは充分にお互いから得るものを得た。
きっとロダンはそう思っていた。
だから、出逢いから9年後、カミーユが自らロダンのアトリエを去ったとき、彼はそれを受け入れたのだ。
その後、恋愛の下降期のエネルギー(復縁したり別れたりの繰り返し)を使い果たしたのち、かんぜんな別れに至る過程で、ロダンはカミーユのいない日常に戻り、カミーユは精神を病んでいった。
この違いは何か?
単純なことだと思う。
カミーユにとってロダンはすべてであり、ロダンにとってカミーユは一部だったのだ。そしてその違いこそがカミーユの悲劇の元凶だった。
ロダンへの被害妄想と愛憎のなかで、精神を病んでゆく彼女をロダンはどんな想いで見、そして精神病院に入れられたという知らせをどんな想いで聞いただろう。
ロダンのつぶやきを想像してみる。
私はただカミーユを愛し、共同制作を楽しみ、そして古くからの女、ローズをたいせつにしただけだ。
カミーユがそこまで精神的に荒廃し、自分を苦しめる迷惑な存在になろうとは、思いもよらなかった。誤算だった。
誤算。
ああ、だから、私はさきほど「危険な情事」を連想したのかもしれない。
一夜限りの情事と信じて疑わなかった男。まさかあの女が自分を脅かす行動に出ようとは。
人は苦い誤算で学習し成長してゆくのだろう。その経験は人生の通過点のひとつとして彼らのなかに残るのみ。
ロダンにしても、そう。
彼にとってもカミーユとのそれが「極限の愛」であれば話はまったく別だけれど。
(以上です)


