絶筆美術館

★絶筆美術館3:マグリット『騎手のいる風景』

2025/11/18

 

 もしもこの絵が絶筆でなかったら、私はマグリットにこんなに興味をもたなかったかもしれない。

『騎手のいる風景』。

 暗い、暗い森のなかにひっそりと佇む一軒の家、掃き出しの縦長の長方形の窓は六つ、オレンジ色の灯りが燈っていて、手前に馬に乗った人のシルエット。灯りの燈った家に向かって駆けているのか。それともただ通りがかっただけなのか。

 空は雲が多いけれど晴れている。透明感あふれる薄い水色がとてもやわらかくてすがすがしい。

 これはマグリットが好んだテーマ『光の帝国』(光の支配)シリーズ、多くのヴァージョンを描いたうちの最後の一枚、おそらく二十七枚目とされる。

 未完。『騎手のいる風景』というタイトルはマグリットの死後につけられた。

 癌に冒されたマグリットにこの絵を仕上げる時間が残されていなかった。だからなのか、写実的でかっちりきっかりした、「いかにもマグリット」的な絵ではない。

 

 私はこの絵が好きだ。

 余韻があり、やさしく穏やかで、フェルナン・クノップフの『見捨てられた町』、これは私が好きな絵画のベスト3につねに入っている絵なのだが、それにも似て、ノスタルジーを覚え、共鳴する。ゆっくりとゆっくりと、けれどかくじつに、その世界に引きこまれてしまう。そう、ノスタルジー、郷愁がこの絵には色濃くある。

 そんなふうに感じていたら、どの本に書いてあったのか忘れてしまったけれど、マグリットは同じベルギーの作家クノップフの絵が好きで、『見捨てられた町』にも強く影響を受けている、という記述を目にして、ひどく納得したのだった。

 

 『騎手のいる風景』をはじめて観たのは一九九四年、当時の三越美術館で開催された「ルネ・マグリット展」だった。

 それまで私はマグリットが創り出す世界を、面白いとは思っても感動するということがなかった。頭は刺激されるけれども心が揺れることがない、そんなかんじだった。けれど、その展覧会で『騎手のいる風景』に魅せられて、マグリットに興味をもったのだ。

 彼が何枚も同じテーマで描き、結果、この絵が絶筆となったのだということを知ると、さらに彼への興味は膨らんだ。

 しかしマグリットを「もっと知る」ことは難しかった。

 なぜならマグリットは自分のことを徹底的に語りたがらなかった人で、作品についてあれこれと解釈の説明を求められたりすること、私生活を知られることを嫌っていたからで、この絵を描いた人はどんな人なのか、どんな人を愛し、どんなことに苦しみ、どんなときに幸せを感じたのだろう……、そんなことに強い興味をもつ私としては、かなりじれったい人なのだった。

 実際のところ、波乱万丈の人生とは程遠い、「エピソードのないことがエピソード」みたいな言われ方もしている。どれだけ情報がないのか、とじれったさがエスカレートして苛立ちさえ覚える。

 それでも、できるかぎりの情報を集めて、そしてマグリットの絵と真剣に向かい合って、その結果、私は私なりの結論を得た。

 

 彼の絶筆には、彼が最後に見たものが描かれている。

 

■自分の存在を煙に巻いて楽しむ。

 私はマグリットの絵に頭は刺激されても心が揺れることはない、と言った。

 もっと正確に言うと、マグリットの絵は難しいと思う。ふだん、「絵というのは、わかるわからないじゃないし、難しいとか簡単とか、そうのではないし、ただ自分が思うように思えばいいし、感じなければそれでいい」なんて言っているくせに、マグリットの絵の前では「難しい」と思ってしまう。

 ミシェル・フーコーがマグリットの絵について書いた本、『これはパイプではない』を読んだこともある。

 読まなければよかった、というより読めなかった。何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。やはりマグリットの絵は頭の良い人しか相手にしないのではないか、と拗ねた。

 それでも、私なりに「何か」は感じとってはいるわけで、マグリットの絵と向かい合うと、これはいったい何なのか、何を表現しようとしているのか、私に何を語りかけているのかと、考えて考えて考えこむ。

 この作業はおそらくマグリットに夢中の多くの人がさせられてしまう「謎解き」だろう。

 それから自問が始まる。私がふだん目にしているものは、本当にそうなのだろうか、そのように私が見ようとしているだけなのではないか。私が感じていること思っていることは、本当にそうなのか。そう思いこんでいるだけではないのか。

……この感覚、うまく言えないけれど、私は自分自身が「いまいる世界を一度疑う」という作業をしているのだと思う。

 それってすごいことだと思う。私にとってマグリットはたしかに心うたれ涙する画家ではないけれど、卓越した何かをもっていたとは、感じる。

 

 澁澤龍彦はマグリットのことを「ギリシアのソフィストたちのように、弁証法の遊戯にふけりながら、無限に自己韜晦する画家」と表現していて、これまたちょっと難しいけれど、さすがだと思う。

 マグリットは哲学者(ソフィスト)なのだと思うと納得できる。ある問いかけに対して答えを考え、その答えに対する反対の意見を言い、そうすることでさらに高次元の答えに到達する(弁証法)、そんなことを楽しんでいた。

 そしてどこまでも自分を隠し、実生活でも、そして作品のなかでは徹底的に自分自身を隠蔽し、自己の存在を煙に巻くこと(自己韜晦 ミスティフィカション)をし続けた。そういう画家だったのだと、私も思う。澁澤龍彦に賛成。

 だって、マグリットの妻でありミューズであったジョルジェットがこんなふうに言っている。

「絵を描くときはワイシャツを着てネクタイをしめていました。いかにも芸術家風というのが嫌いでした。だから近所でも彼が画家だって知らない人もいたくらいです。

ほんとうに口数が少なくて、静かな、ごく普通の人でした。ドビュッシーの『海』をよく聴いていました。北海の海が好きでした。」

 

 このような画家が、あのような衝撃的な絵を描くのだ。

 そして、自分の人生にはとりたてて騒ぐようなことはなかったという画家は、十四歳のときに自殺というかたちで母親を失っている。精神を病んでいた母親は近くの川で入水自殺をした。

 マグリットは自分の過去も他人の過去も興味ないのだと言い、過去を探られることを嫌い、心理学や精神分析などは、ほとんど毛嫌いしていた。だから、母親の入水自殺がトラウマとなり作品に反映されている、なんて見方をされることも嫌っていた。

 しかし作品に反映していたかどうかはともかく、母親の入水自殺は多感な時期の少年マグリットに深い傷を残したことは確かだろう。

 父親は商売で成功し、けれど留守がちで女性関係も派手だった。マグリットは三人兄弟の長男で近所でも評判のいわゆる「不良」だった。

 マグリットは穏やかな家庭とは程遠い環境で育った。

 そして、絵を志したきっかけも、平凡なものではなく、啓示的ともいえるべき、そんなものだった。

 母親が死んだ年に、彼はあるものを見る。

 それは、ひとりの絵描きだった。

 公園の隠れ家みたいな地下室で女友だちと遊んだあと、帰ろうと扉を開けて外に出ると、そこに一人の絵描きがイーゼルを立てて絵を描いていた。

 瞬間、少年マグリットは何かにうたれたようになった。

「陽の光に導かれて外に出ると、都会からやって来たひとりの画家がいて、墓地の小道で絵を描いていたのです。そこは、一面の落葉のなかに崩れた石柱が横たわっていて、まるで絵のように美しい場所でした。そのとき、私には、絵画というものが何か魔法のようなものに思え、画家は優れた能力を持つ人だと思えたのです。(生命線)」

 

――画家という存在には不可思議で超越的な力が与えられている!

 画家として生きよう。マグリットは決意した。

 その日、それを「見た」ことは、彼の人生における重要な事件だった。

 

 画家になったきっかけは、みなそれぞれにあると思うけれど、マグリットのはそのなかでもずいぶんドラマティックではないか。

 マグリットはひじょうに繊細で劇的なものを、内にもっていたひとだった、と私は思う。

 

■マグリットはシュルレアリスト

 私がノスタルジーに浸されるようになるから好き、と思う『騎手のいる風景』も、ちょっと専門的にみると、シュルレアリスム作品となる。

 マグリットは、「ベルギー・シュルレアリスムを代表する画家」と言われる。

 ああ。シュルレアリスム! この単語が出てくると私の眉間には皺が寄る。どうも苦手、難しいのだ。

 シュルレアリスムとは、超現実主義と訳される、第一次世界大戦後のヨーロッパを中心にしておこった前衛芸術運動で、文学、美術、映画などあらゆる分野におよんだ。

 シュルレアリスムを理解しようとして、それについて語られたものを読むと、ひじょうに難しくややこしくて、わざと難解にしているのではないかと疑いたくなるような言葉の羅列に、つい悪態をつきたくなる。

 ところがマグリットはこのシュルレアリスムを実にシンプルに表現していて助かる。彼の言葉をさらにわかりやすく意訳してみる。

「シュルレアリスムは革命的な思想です。人間の生というものは、絶対に、生きる価値があるものでなければならない、と考えます。諦めるということや、卑小なものを認めません。人間の可能性が不動の規則に服従することも認めません。我々を思い通りにしようとする既成概念すべてに断固として反旗を掲げるものです」

 シュルレアリスムの絵画分野の重要な技法として「デペイズマン」がある。

 フランス語の「人を異なった生活環境に置くこと」から転じて、美術用語としては「あるものを本来あるべき場所から他のところに置くことによって生じる衝撃が、詩的な想念や美的感情を生み出す」、そんなふうに使う。

 十九世紀フランスの詩人ロートレアモンの言葉が、テペイズマンを語るときによく使われる。

「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」

 解剖台、ミシン、こうもり傘、 出会い、 美……。

 意外すぎる組み合わせ。

 日常、目にしているものが、普段とは全く異質の関係のなかに配置されると、ぐらりとめまいを起こしたような感覚になる。マグリットの絵はまさに、これだ。

 そういう「デペイズマン」の技法を、『騎手のいる風景』でも使っている。

 だって、空を見れば、どう考えても昼間なのに、森と森のなかにたたずむ灯りのともった家は夜なのだから。

 それでも、この絵は「難しい」かんじがしない。一瞬「あれ?」ってかんじの感覚にはなるけれど、それは強くはない。

 

 ここに描かれているのは「昼間」と「夜」。「光」と「闇」だ。

『騎士のいる風景は』は『光の帝国』シリーズのうちの一枚だが、『光の帝国』が最初に描かれたのは五十六歳のとき。それから亡くなるまでの十数年間で実に三十枚近くの『光の帝国』が、さまざまなヴァージョンで描かれた。人気のある絵で注文が多かったということもある。

 作品について語ることのないマグリットだが、この絵について五十七歳のときに次のように語っているので意訳する。

「『光の帝国』という一枚の絵に描き出されているのは、もちろん私が考察の対象としたものです。正確に言えば、夜景と昼間の空で、この夜と昼とを同時に思い描くことで、この絵は観る者に驚きを与え、魅了する力を持つのだと思います。私はこの力を詩(ポエジー)と呼びます。この絵が詩的な力を持つのは、私がつねに、夜と昼に対して強い関心を持ち続けたからです。夜と昼に対して私は畏敬の念を持ち、心底すばらしいと感じているのです」

 

 なにか、この言葉はマグリットが自分自身を語っているようにも感じられる。

 昼と夜の対比、それらが同時に存在する世界。それらが同時に存在する自分という人間。

 人は誰だって「光」と「闇」をもっているものだろう。どんなに単純でどんなに陽気で「光」そのもののように見える人だって、その深さ広さに違いはあるものの「闇」を抱えている。

 マグリットの場合はしかし、この「光」と「闇」の落差というか格差というか、それがすごく激しかった、そんなように思う。たとえば絵を描くときのサラリーマンのようないでたちと、描かれるショッキングな絵のように。

 

 絶筆となった作品は、この『光の帝国』に「騎手」が加えられていて、これは新しいヴァージョンを創作しようとしていたからだといわれる。

 騎手もマグリットが繰り返し描いたイメージだ。最初のシュルレアリスム的な作品が、『迷える騎手(失われた騎手)』であり、「騎手」を描いたということも興味深い。

 これは二十八歳のときの作品で、枯れ木のなかを騎手を乗せた馬が疾走している。どこに行くのかわからない。たたひたすらに失踪している。マグリット自身の言葉によれば、これは「ある神秘的な感覚、『理由なき』不安への回答」として描かれた。

 

 

 私は知りたい。

 二十八歳のときに「理由なき不安への回答」として描かれた騎手は、四十一年後、六十八歳で亡くなる直前に描かれたとき、いったいどんな意味をもっていたのか。

 

■控えめだけれど強烈なミューズ

 ジョルジェットの存在が、そこに大きく関係しているように思う。

 ジョルジェットはマグリットの妻であり、生涯にわたってミューズであり続けた女性だ。

 数少ないジョルジェットのマグリットに対する思い出話やいくつかのエピソードから想像するに、ジョルジェットはマグリットを理解していた。彼の光も闇も理解していた、彼を包みこんでいた、そんな存在のように思える。

 もちろんその根底には、マグリットから彼女への愛があった。

 

 ジョルジェットとの出会いは十五歳のとき。シャルルロワという町のお祭りではじめてお互いを知り、一緒にメリーゴーランドに乗った。ジョルジェットは三つ下の当時十二歳。

 学校の行き帰りにときどき会う友達だったが、マグリットがブリュッセルに出て音信は途絶えた。そして七年後の一九二〇年、ブリュッセルの植物園で偶然に再会する。「ジョルジェット!」マグリットにしては珍しく大きな声で彼女の名を呼んだ。

 二年後に結婚。マグリット二十四歳、ジョルジェット二十一歳。それからマグリットが六十九歳で亡くなるまで、じつに四十五年間、ジョルジェットはマグリットのミューズであり続けた。二人の間に子どもはいない。結婚してすぐのころ妊娠したけれど流産してしまった。

 四十五年間。

 その間、マグリットの女性関係は知られていない。知られていないだけで何かしらの小さな出来事はあったかもしれないけれど、人生を揺さぶるような出逢いがあったとは思えない。

 

 あったとしたらジョルジェットのほうで、第二次世界大戦中にそんなエピソードがある。

 ドイツ軍のベルギー侵攻により、マグリットは親友夫妻と一緒にフランスへの脱出を企てる。ところがこれにジョルジェットは同行していない。なぜならジョルジェットは盲腸炎を患っていて長旅が無理だったし、夫婦共通の友人であるポール・コリネという名の愛人がいたからだ。このころ夫婦はうまくいっていなかったのだろう。

 それでも結局マグリットは数ヶ月でベルギーのジョルジェットの元に戻る。途中、旅先で親友に宛てて手紙を書いていて、そのなかにこんな文章がある。

 

「もし僕が死んだら、ジョルジェットに最後の瞬間まで愛していたと伝えてほしい」。

 

 結婚して十八年目、マグリット四十二歳、ジョルジェット三十九歳の出来事だった。

 マグリットはシュルレアリストだから、世間と同じ価値観をもつことを自分に禁じていただろう。

 シュルレアリストたちが標榜したことの一つには自由恋愛があったから、ジョルジェットと仲間の恋愛も受け入れることが当然といった空気があったのかもしれない。騒ぎ立てることは主義に反する。

 それでもシュルレアリストたちが自由恋愛を標榜しながらも、自由恋愛の敵である嫉妬、独占欲に苦しんだように、マグリットもまた苦しんだということなのだろう。

 私の大好きなエピソードを紹介したい。

 ジョルジェットが語っているように。

「……忘れられないエピソードの一つをお話ししましょうね。パリにいたときのことですからまだずいぶん若いころね。シュルレアリストたちのパーティーがあって、親しくしていた詩人のポール・エリュアールと同じ車で会場に向かいました。

 私は、いつものように祖母の形見のロザリオを首に下げていました。ロザリオは十字架と玉でできたカトリック教会の信心用具。シュルレアリストたちは既存の価値観を破壊しようとしていて、宗教も否定すべきものの一つでした。ですからエリュアールは私に言いました。外したほうがいいんじゃないかな、って。けれど私も夫もエリュアールのアドヴァイスを流して会場に入りました。

 会場に入ると、今度はグループのリーダーであるアンドレ・ブルトンが言いました。このなかに嫌悪すべきものを身につけている人がいます、って。それで私に近づいてきて、外したほうがいいんじゃないかな、って言ったのです。

 私は、人の命令で外したりしません、と言い返しました。そうしたら夫がすぐに私のところに来て、私の腕をとって、私たちは会場を出たのです。

 夫は無神論者で教会のミサにも一度も行かないような人でした。それでも自分が宗教を否定していることと、私が信じるものを尊重することとを混同しなかった、そういう人でした。

そして夫は、私がいつも側にいることを望んでいました……」

 このロザリオのエピソードにはマグリットの、妻を尊重し大切にする姿があり、そしてシュルレアリストたちと行動をともにしながらも独立した精神があり、とても好きだと思う。

 

 ところで、マグリットにとってのジョルジェットを考えるとき、その強烈な存在感に私は、ダリの妻でありミューズであるガラを連想する。

 ジョルジェットとガラはその容貌も似ているように思えて、だからなおさらなのだが、しかし一方は私生活公開主義のダリ&ガラ、ガラはその強烈な個性で有名で、色情狂だとか金の亡者とか言われることすらある人、ジョルジェットとはまったく違うタイプだ。

 同じシュルレアリストでもマグリットはダリのことを嫌っていたようだし、似ているなんて言ったら怒られるだろう。

「残念ですがダリについて言えるのは、せいぜい彼がシュルレアリスムのなかでの活躍をひけらかす方法を見つけたのだということぐらいです。そんなものは、軽薄な連中しか興味を持たないでしょうが」(一九六一年のインタビューより)」

 それでもやはり、ジョルジェットも夫を上手にコントロールしていたのかもしれない、と思わせるようなエピソードがある。

 

 ぶれずに画家人生を邁進した印象が似合うマグリットだが、実はかなり揺れた時期があった。

 一度目の揺れは一九四三年(四十五歳)から一九四七年(四十九歳)の四年間で、ルノワールに似た作品群を描いている。

 第二次世界大戦の影響で、陰惨な時代だから明るい色彩で快楽を表現しようとしたと言われる。通称「ルノワールの時代」で、これはシュルレアリストたちには不評で、とくにアンドレ・ブルトンからは強く非難された。

 二度目の揺れはこのすぐ後。

 ブルトンとの諍いがもとで、マグリットは一九四七年の「シュルレアリスム国際展」への招待を取り消される。その翌年パリでの初個展が開かれ、多くの人が訪れた。

 みな唖然とした。飾られた作品は、マグリットのそれまでの作風とも、ルノワールの時代の作品ともまったく異なるものだった。暴力的で粗いタッチ、グロテスクな表現。マグリットは二〇世紀初頭の「フォーヴ(野獣)」と呼ばれる表現形式をもじって「ヴァッシュ(雌牛)」と自称した。不評で、一枚も売れなかった。

 そしてマグリットはこの作風をすぐにやめる。

 売れなかった以外にも強い理由があった。このときのことを友人に宛てた手紙に書いている。

「私はヴァッシュをもっと追求したいと思っていました。私には緩慢な自殺への願望があるのです。しかし私にはジョルジェットがいるからそれはできない。ヴァッシュは私が正直に、本当に表現したいことだったけれど、それがこんなに不評なら考えなければいけない。なにより大切なことは、ジョルジェットは私の昔の、丁寧に描いた作品が好きだということです。私はジョルジェットが気に入るように、昔のような絵を描きたいと思っています」

 ジョルジェットが理由だった。

 こうしてヴァッシュの時代はマグリットのなかで封印された。

 このマグリットの無謀ともいえるチャレンジは、けれど、マグリットにしてみれば、本人が言うように正直なことをしてみただけだったのだろう。一九四六年、ヴァッシュの構想を考え始めたころに「私は自分の限界がはっきり分かってしまうことが、怖くてたまらない」と言っている。

 可能性を広げるためのチャレンジだったのだ。自己模倣に陥るのがこわかったこともあるだろう。

 それでもジョルジェットの意見が、創作上の葛藤その他すべてに勝ったということだ。

 ジョルジェットはマグリットが亡くなったあと十九年生きた。

 

■輝かしい晩年、そして絶筆

 

 マグリットは絵が売れなかったときにも広告デザイナーの仕事をしたので、豊かではなくても、生活に困窮するということはなかった。

 絵が売れ始め、裕福になり始めるのが一九五〇年代、ベルギー・シュルレアリスムの黄金時代ともいわれる時期で、アメリカ市場を中心に作品が高額で取り引きされるようになった。マグリットが五十代にさしかかったころだ。

 それから最後の約十五年をマグリットはベルギーのブリュッセル、スカールベーク市内の落ち着いた住宅地の家で、ジョルジェットと愛犬とともに日々を送った。

 晩年は栄光につつまれていた。各地で回顧展が開かれ、画家としての業績に栄誉賞が授与され、テレビ番組が制作され、書籍が出版された。

 

 マグリットは一九六七年の八月十五日、膵臓癌で亡くなった。

 展覧会図録の年譜を見ると、一九六五年に「病気が原因で制作数が減少する」とあるから、このころから死を予感していたのかもしれない。

 

 イーゼルの上には二十七作目の『光の帝国』があった。

 ジョルジェットは言う。

「遺作です。熱狂的な夫のファンだった大学生のために描いている途中でした」。

 マグリットの死後に『騎手のいる風景』というタイトルがつけられたとは、すでに書いたけれど、マグリットの絵の特徴のひとつにタイトルがある。この絵になぜこのタイトル、というのが多く、タイトルも含めてマグリットワールドなのだが、マグリット自身はタイトルについて次のように言っている。

「私は、私の描くイメージには、できるだけいいタイトルをつけようとしている」

 タイトルはブリュッセルのシュルレアリストの仲間たちが考えたものが多く、一癖も二癖もある言葉の魔術師でもある詩人たちがつけたタイトルだから、マグリットの絵がさらに思考の迷宮ワールドになるのだろう。

 暗い森のなかにひっそりと佇む一軒の家、掃き出しの縦長の長方形の窓は六つ、そのすべてにオレンジ色の灯りが燈っていて、手前に馬に乗った人のシルエット。空は薄曇り。グレーが勝った水色の空。

 私は冒頭でこの絵にノスタルジーを覚え、共鳴する、と言った。

 郷愁、ホームシック、過去への追憶……そんな感情がじわっと胸にわきおこる。

 家の灯りがなんとも温かで、そこはいつ帰ってもいい場所で、記憶のなかの絶対的な居場所で、そして馬に乗った人は、やがて、灯りのある場所に帰るのではないだろうか。

 とはいえ、描いたのはマグリット。そんな単純な意図のみで描いたとは私も思っていない。

 けれど、ほかの『光の帝国』には、私が知る限り、窓すべてに灯りが点っている家はない。

 癌に冒されたマグリットがキャンバスに向かって描こうとしていたものが、あたたかな家の灯りであり、しかも家のすべての窓に灯りが点っていて、馬に乗った騎手、二十八歳のときには「理由なき不安への回答」であった騎手が、その灯りに向かっていると私には見えるのだが、もしそうだとすれば、死を前にした画家の心の内を見たように思えて、しずかな思いに満たされる。

 すべての窓に明かりが灯された家は、妻ジョルジェットなのではないか。「理由なき不安への回答」は、そのジョルジェットのところへ帰ろうとしているのではないか。ロマンティックにすぎる解釈だろうか。

 でも、そうにでも考えなければ、私には、このノスタルジーの説明がつかない。マグリットは最後に自分の居場所をくっきりと見た。

 そんなふうに解釈したら、さらにロマンティックにすぎるだろうか。

 

***

主な参考文献

「世界 名画の旅5 ヨーロッパ北部編」朝日新聞社(1989年)「マグリット」(文:高橋郁男)1985年10月27日掲載

「もっと知りたい マグリット 生涯と作品」南雄介監修・著 福満葉子著

東京美術(2015年)「マグリット 光と闇に隠された素顔」森耕治著 マール社(2013年)

「マグリット展」図録 読売新聞東京本社(2015年)

「ルネ・マグリット展」図録 朝日新聞社(1994年)

「幻想の彼方へ」澁澤龍彦著 河出文庫(1988年)

 

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