★絶筆美術館5:クリムト『花嫁』
2025/11/18
十九世紀末ウィーン、エロティシズムの画家クリムトは五十五歳で死んだ。
なぜか彼は脳卒中をずっと恐れていたが、その脳卒中の発作に襲われ入院、半身不随となり、抵抗力がなくなっているところに当時ヨーロッパで猛威をふるったインフルエンザ(スペイン風邪)にかかり、そこからの肺炎が原因で、およそひと月後に死んだ。
画家がいなくなったアトリエには何枚かの描きかけの絵が残された。彼はつねに何枚かの絵を同時進行で描いていたからだ。
その一枚、『花嫁』とタイトルがつけられた作品を、クリムトの芸術的絶筆として選ぼうと思う。
秘密主義というか、とにかく自分のことを語りたがらなかったクリムトが、意思に反して「公開」することになった創作の過程が、その描きかけの絵に表れていて、とても興味深いし、クリムトという、その人自身が、そこに表れているように思えるからだ。
■創作の秘密の女
私は、はじめてそれを観たときに、声をあげるほどに驚いたのだ。
『花嫁』はイーゼルに残されていた。
大きな絵だ。およそ縦1.7メートル、横2メートルある。
驚いたのは、私が「創作の秘密の女」と呼んでいる、ある「部分」。
それにしてもいったい、ここには何人の人が描かれているのか。
途中のもあるからはっきりとはわからないけれど十名前後、みな半裸。
中央の首を真横にかっくりと倒して目を閉じているのがきっと「花嫁」だろう。左の前面には、グラマラスな背中とお尻をむけた裸の女性がいて、ほかの女性たちも妖しく愉しく煽情的に、装飾的にからまりあっている。
左下には乳児も描かれている。これは結婚後の未来を描いているのか。なぜ、わざわざ乳児がここにいるのか。
同じ時期、圧倒的な存在感をもつ『乳児(ゆりかご)』を描いている。乳児の顔はほんとうに小さく上部にあり、あとは装飾的な服なのかおくるみなのか布団なのか、画面のほとんどがそれで覆われている絵だ。
この絵を観ていると、この時期クリムトの関心が強く「生」にあったように思えてくる。
「生」を考えれば当然「死」がくる。そして乳児、繰り返される「生」の営み、「再生」にクリムトの関心は集中していたのかもしれない、と。
『花嫁』には、クリムトが描くことを嫌った男性も一人、描かれている。花婿だ。しかし、花婿の視線はどこへ向かうかといえば、となりの目を閉じて彼に寄りかかっている花嫁ではなく、その向こう側の女性だ。花婿の「女」なのか。それはわからないが、この女性がまさに、「創作の秘密の女」で、私を驚かせた「部分」なのだ。
彼女は、その裸の姿を克明に描かれている。性器の部分もほとんど愛撫するように描かれている。乳房も同様だ。
これだけでは、とりたてて驚くことではない。たんなるヌードだ。
私が驚いたのは、この女性は、克明なヌードを描かれたのち、これからクリムトによって服を着せられようとしている、ということにある。もしかしたらシースルー的な服のつもりだったかもしれない。その可能性はある。けれど従来のクリムトの絵から想像するなら、やはり下半身は装飾的な衣装で覆われていたのだろうと思う。
そう、まさに彼女はこれから画家によって服を着せられようとしているのだ。つまりクリムトは着衣の女性を描くにしても、まず最初に裸をきっちりと描いてから、それから、衣装を着せていたのだ。
これは、未完のまま、画家が死んだからこそ知ることができる事実。
当然、考える。
クリムトはほかの絵も、このような描き方をしていたのだろうかと。
たとえば、モナリザくらいに有名な『接吻』の男女、あの黄金の衣装の下には克明な裸体があるのだろうか。
■私についてなら何も読みたくない
クリムトはほんとうに無口だった。自分自身についてはまったく語らず、文章もまったく残さず、伝記作家や研究者泣かせの「寡黙な画家」だ。
「語られた言葉とか書かれた言葉には、どうも苦手だ。自分と自分の仕事について語るときには特に苦手だ。簡単な手紙を書こうとすると船酔いしそうになる。文字恐怖症かもしれない。だから私に対して何か語れと求めないでほしい。私は芸術家としては注目すべき人物だと自負しているが、そういう私について何かを知りたいと思うなら、私の絵とじっくりと対峙して、そこから私という人間、私がしようとしていることを探し出してほしい」
とくに晩年は、誰とも会いたがらずに、静かな環境でひたすらに創作することを望んだ。
あるとき友人の作家に電話をして言った。
「私のところへぜひ来てほしい。そして絵を見てほしい。絵を見てもらうのは嬉しいからね。でも、一言も書いてはいけない。私は他人について書かれた文章を読むのは好きだ。しかし、私についてなら何も読みたくはない」
語られることを徹底的に嫌ったのだ。
それなのにあなたのことを書いてしまって、ごめんなさいね、でも大好きだから書きたいの、と言いつつ先を続ける。
クリムト は、一月十一日朝、ウィーンの自宅で着替えをしているときに脳卒中で倒れた。
彼の父親は五十八歳で死んでいて、自分もそのくらいの年齢で死ぬことを恐れていた。だから繰り返し言っていた。六十まで生きさえすれば。その先も長生きできるだろう、と。それなのに、父親が死んだ年よりも三歳も若くして死んでしまった。
倒れてから入院していたが、見舞いに来た甥に、麻痺していないほうの左手で近くに来るように合図をして言った。
「まいったよ。もう右手では何をすることもできない。私の一番の悩みがわかるかな? 女たちの手で、なすすべもなくすべて看護されなければならないことなんだよ」
ある友人にはこう言った。
「麻痺したままになるのが一番恐ろしい」
ひと月も経たずに死んだわけだから一番恐ろしいことからは逃れたということか。二月六日、インフルエンザを原因とする肺炎で、クリムトは死んだ。五十五歳だった。
二十八歳も年下の友人エゴン・シーレが『死の床のクリムト』をデッサンした。そして、『アンブルフ』という雑誌にクリムトのための墓碑銘を書いた。
「グスタフ・クリムト
思いも及ばぬ円熟の画家
まれに見る奥深い人物
彼の仕事は聖なる宝」
そのシーレも八か月後、インフルエンザで死んだ。
クリムトは四十代の半ばから五十六歳で死ぬまでの十年間をほとんど、孤独に、制作だけに打ちこんで過ごしたけれど、四十代の半ばころまでは違って、同時代の芸術家たちのリーダー的存在として活躍していた。前衛芸術家のグループ「ゼツェッション(分離派)」を結成、従来の保守的で閉鎖的な美術界からの「分離」を、既成の価値観にとらわれない表現を、目指した。
彼らの活動のシンボルとしての建物が「オーストリア美術館」からほど近いところにある「分離派館」で、中心のてっぺんにある金の月桂樹が絡まった球体のオブジェが特徴的なのだが、ここの正面玄関には素晴らしい言葉が掲げられている。
「時代にはその時代の芸術を 芸術にはその自由を」
■裸の真実
すこし脱線するが、クリムトの反骨精神をあらわすエピソードを紹介したい。
クリムトが描く絵はエロティックな要素が多分にあったため、物議を醸しだすことも多く、そのたびに彼は「良識ある世間」と闘ってきた。
一八九九年三十七歳のときの作品に『ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)』がある。
縦長の長方形、縦の部分、高さが二メートル六十センチもある油彩の大作で、赤毛のヌードの女性がまっすぐに立ってこちらを見つめている。
目は見開かれ口は少し開いて右手に、これは真実を映し出すものなのか、円い鏡を持ち、赤毛は豊かに胸までを覆い、そして同色のアンダーヘアが挑発的に描かれている。足もとには蛇。
そして上部には模様のような書体で詩句が描かれている。シラーの詩句だ。
「おまえの行動と作品が、万人に愛されることがかなわないのなら、少数の人間を満足させよ。多くの人間に愛されるものは、ろくでもないものだ」
私が大好きな言葉のひとつである。
クリムトもきっと、ここに大きな意味をこめたのだと思っている。
自分のことは語るほどの人間じゃないと思っていて、だから自画像もほとんどない。『性器としての自画像』なんてタイトルのカリカチュアデッサンがあるだけだ。
「わたしには自画像がない。絵の対象としての自分に興味がないからだ。他人、とくに女性にはすごく興味があるけど。自分が面白みのない人間であることをよく知っているんだ。特別な人間じゃないこともね。私はひとりの画家である、朝から晩まで絵を描いている、それだけなんだよ」
そして男性を描くのを嫌った。絵のテーマ上どうしても必要なときにしか男性を描いていない。
いくつかの大きな展覧会を開催し、そのたびに、エロティックすぎる絵を非難されたり擁護されたりして、そろそろ自分が中心の時代も終わる、という自覚があったのだろう。四十七歳のころ知人に言っている。
「若者たちは私をもう理解しない。彼らはどこか別のほうへ歩いていく。そう……彼らが私をよしとするかどうか、私には全然わからない。普通よく言う自信喪失が起こるには、まだいささか早すぎる。いつでも若者たちは既成のものをまず攻撃して、ぶち壊したがる。だから私はまだ、彼らと不機嫌な関係にはならないだろう」
若い世代に理解を示しつつ、けれど自分はもうそこにはいないのだという自覚。
年齢を重ねて、そう、五十を過ぎたあたりから、この自覚を得られる人とずっとわからないままの人に分かれると私は思っている。クリムトはしっかりと自覚していた。
もう充分に若い人たちを助けたという満足感もあっただろう。エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、ふたりの天才を世に送り出したのはクリムトなのだから。
晩年の日常はまるで職人のようだった。朝は早く起きる。朝食をとり、軽く運動をして絵を描く。夜はゆっくりと食事をとり、ぐっすりと眠る。
そして、ただひたすらに自己の芸術を追求した。
作品の説明などをする人じゃないから、何を表現したのかよくわからないものが多い。
とくに晩年の作品は、いわゆる寓意(アレゴリー)画が多く、『花嫁』もその一つだと言われる。
アレゴリー。
何かを表現するために、別のものを使ってそのことをほのめかす、そういうやり方。
クリムトは『花嫁』というタイトルの絵で、何を表現しようとしたのだろうか。
■花嫁というタイトルへの疑問
私は最初、クリムトは好きなことにただひたすらに没頭していたのだと思った。うらやましいくらいにそう思った。さすがは「エロティシズムの画家」クリムト、そう思った。
何人かの目撃者情報によれば、アトリエでクリムトはいつも裸の女性たちに取り巻かれていて、まるでハーレムのようだった。女たちはしどけない姿でくつろぎながら画家の指示を待っていて、声がかかると画家の指示の通りポーズをとって、画家が素早くデッサンする……。
クリムトの仕事着は古代ローマ人が着ていたような頭からすっぽりかぶる一枚布のトーガと呼ばれるスモックのようなもので、下着はつけていなかったようだから臨戦態勢にあった。
下着には、微力かもしれないけれど、欲望を自制する働きがあるはずだから、これがなくて、裸に直接スモックでは、その布の刺激もあり、自制もなにもあったものではなかっただろうと私は想像する。
もしかしたらクリムトは、その効果を期待して一枚の布だけを身にまとっていたのかもしれない。
性的な刺激に敏感であるために。エロティックな気分から遠ざからないように。情熱が年月とともに衰えないように、敏感であるために。そんなふうにも想像したりする。
クリムトには当時は公表できなかったくらいにきわどいデッサンが三千点以上ある。そのきわどさは日本の、「男性が登場しない春画」のようであり、けれど、とてもやわらかく、絵の女性に対する画家のまなざしが、好きなものを愛でるときのようなそんな温度で、暴力的攻撃的な要素がない。煽情的ではない、と言ってもいいくらい。品位すら感じる。そもそもエロティシズムというのはそこに品位があるものではないか。そこがポルノグラフィとの違いなのではないか。
デッサンだけではない。油彩でもギリシア神話を題材にして、思う存分エロティックな作品を描いているし、たとえば『接吻』など、一見しただけではそのように見えない作品にも、まるでだまし絵のように男性器や女性器を描いているのだ。
だから、この未完の絶筆『花嫁』がさらけ出してしまった彼の制作過程を見てしまって、私は、ほんとうに彼はエロティックなことが大好きだったんだな、と思ったのだ。好きでなければできないことだと思った。克明に裸体を描いてから、その上を衣装で塗りつぶしてゆくなんて。
けれど、絵とじっくりとつきあってみると、つまり、一週間以上、ずっとこの絵と向かい合って、この絵について考えていると、果たして、「好き」なだけで描いたのだろうかと、疑問がわいてきた。
なにしろ、若き日々は、政府や頭の固い評論家たちと自身の芸術の自由をかけて闘ってきた人なのだ。言葉は残していないけれど、事実として、ずっと闘ってきた人なのだ。
彼が好んだシラーの詩句、分離派館に掲げられた言葉、そんなことを思うと、そんな単純な絵であるはずがないと思えてくる。
だいたい、どうしてテーマが『花嫁』なのだろう。
■ミューズ、エミーリエ・フレーゲはいたけれど
クリムトは生涯結婚を一度もしていない。
実質的な妻、『接吻』のモデルと言われるエミーリエ・フレーゲと濃い関係にあったけれども、結婚はしていない。何人もの女たちがいて、彼女たちの間に子どもまでいる。
ここで少しクリムトにとっての特別な女性、エミーリエの話をしたい。
彼女は、ちょっとややこしいのだが、クリムトの弟の妻の妹。義妹にあたる。
それぞれきょうだいの結婚式で出逢って以来、クリムトが亡くなるまで二十七年間、人生をともにした。
避暑地のふたりを映した写真を見ると、とってもよい雰囲気で、胸にぐっとくるほどだ。ふたりは強い愛情で結ばれていたのだと思える。
あの有名な『接吻』、モデルについては諸説があり、エミーリエ本人が「モデルは私よ」と言っていたとの知人の証言もあるけれど、確かな証拠はなく「モデルはエミーリエの確率が高いけど、確かではない」といったところで落ち着いているようだ。
私は『接吻』の男女に、その絵は装飾を装ってこっそり男女の性的なシンボルがちりばめられているにもかかわらず、このふたりに匂いたつ欲望よりも静かな愛情を感じて、そういう意味からも、ここに描かれている男女はクリムトとエミーリエなのだと思っている。
エミーリエはクリムトの女性関係を知っていたけれど、そのことで別れるということにはならなかった。諍いはあっただろう、けれど決定的な別れにはならなかった。なぜならふたりの間にあったのは恋愛だけではなかったからだ。
エミーリエはモードサロンの経営者という十九世紀ヨーロッパにおいてはかなり珍しい自立した女性で、クリムトは彼女のサロンの服のデザインを手がけたりして、ふたりは人生の同志のような関係でもあった。
彼らが売り出そうとした服はゆったりとしたラインのもので、それはとても珍しい服だった。なぜなら当時の女性はコルセットでウエストを絞りあげ、高い襟で首を固定するような、束縛でいっぱいの服装をしていたからだ。
「窮屈で余裕のない服は、窮屈で余裕のない精神を生み出す」、これがふたりの考えであり、あまり知られていないけれど、ふたりはポール・ポワレやココ・シャネルに先駆けて女性をコルセットから解放すべく衣服改良運動を推進したのだ。
それはファッションから発信されたファッションを超える意義ある行動だった。
なぜなら、クリムトとエミーリエは、身体を自由にすることで人々の精神を既成の価値観から自由にしようとしていたのだから。
と、このようなパートナーはいたけれど、それはそれ、というのがクリムトだった。
■結婚への告発
最初から、クリムトは、自分自身の精力などもあって、結婚というスタイルに疑問を抱いていたのかもしれない。多くの女性たちと関係をもつのが彼にとっての自然であったから、結婚というのはもっとも合わない形式だったのかもしれない。
そう考えると、花婿が半裸の女性たちにぐるぐるにまかれているような様子なのも、花嫁が肩に頭をもたせかけているのに、その向こう側の女性の性器のあたりに視線が行っているのも、わかる、というか、クリムトが見た真実だったように思えてくるのだ。
信頼し、愛しいと思える女性は、そう、エミーリエのような女性はいる。それが中央の花嫁だ。けれど、それはそれ。女性たちに対する興味、性の悦楽への興味は別。そして性の結果として妊娠出産があるというのは、これ事実。左下の乳児もまたクリムトが見た真実、そんなふうに思えてくる。
クリムトは自分に正直に生きた人だった。自分が美しいと思うもの、面白いと思うもの、興味をかきたてられるものをテーマに描き続けた。
その徹底ぶりは半端ではなかったし、社会の出来事といっけん無関係な、人間の本能、内面、欲望を描き続けた。
クリムトの仕事を引き継ぐような画家はいないし、当時も世界的に、ものすごく評価されたというわけではない。クリムトの晩年には、ヨーロッパではキュビズム、フォービズム、など様々な芸術運動が起こっていたけれど、クリムトはこれらとは距離を置いていた。
それなのに、現在のクリムトの人気といったら半端ではない。見た目の美しさもある。わあ、と声をあげたくなるくらい絢爛豪華な絵が多いから、人気があるという見方もある。
けれど、やはり根本的に、そこには、全人類に共通の関心事が強烈に描かれているからだろう。それはエロティシズムだ。
彼のエロティシズム、彼の描いた絵から匂い立つようなエロティシズム、それもそのはず、と納得する。絵を描く工程が、こんなにエロティックなのだ。
ここに描かれているのは幸せいっぱいの『花嫁』なんかではない。結婚なんて偽りだらけであるという画家の告発だ。奔放に性を謳歌し、もっと人は自然に生きるべきなのだという、画家の、良識ある人々への告発なのだ。
了
