●美術エッセイ『彼女だけの名画』15:ウィーンの「水蛇」体験
2025/11/10
同性愛とは無縁なのだと思っていた。ずっとそうだった。
誘われたこともあるけれど動かなかった。同性愛はどこか憧れだった。私のなかに存在しないものとして。
それなのに。
オーストリア美術館の片隅にぽつんと飾ってあった「水蛇」。
この絵は私のなかの、いままで絶対にない、と思いこんでいた感情を、ものすごい勢いで引き出し、目の前にそれをつきつけた。
小さな絵だった。羊皮紙に水彩と金箔とで描かれた世界。
ふたりの女性がしなやかにゆらめいている。
きもちよさそうに目を閉じた女性の左手は、もうひとりの女性をやさしく抱き寄せる。下半身は人魚のようにうろこに覆われている。うろこを表す丸い模様は女性器の象徴。クリムト特有の表現だ。
アトリエに女たちをはべらせ、気の向くまま彼女たちを抱いて、そして描いた画家。
女たちも奔放に戯れていたというから、そのワンシーンを描いたのだろうか。しかし、この美しさといったら尋常ではない。
美しいものだけが発する甘美な誘惑。
膝のあたりが微かに震えた。
いつしか絵のなかに入りこんでいた。
細い指で首筋を撫でられ、仄かなあまい香りの胸に唇を寄せる。
水のなかを漂うような快い感覚に身をまかせる。つよい刺激による快感ではなくて、やわらかな、そう、遅い朝のまどろみのような、そんな心地よさ。
はじめての経験だった。
この絵に、そういう意味で感じた自分に驚き、それをよろこびとともに受け入れた。以前より、人生に楽しみが増えた。
そして、その日以来、女性を見る目がすこし変化した。カフェで見知らぬひとを見るとき、友人たちに会うとき、「水蛇」がいた。
「水蛇」の相手として想像できるか否か。
そんなかんじで女性たちを見るようになると、わりと想像できるひとが多く、しだいに自分の好みもわかってきた。全体的に色彩が薄くて、私が「可愛い」と思える女性。年下というわけではない。年上でもそういうひとはいた。
そして、彼女たちはきっと私と同じように「水蛇」に感じるだろうと思えた。
愛に定型はない、とつくづく感じたのはギリシアのミコノス島(ゲイのひとたちが集まる有名なリゾート地)であるが、人間が孕む欲望の奥深さをあらためて思う。
私の恋人は、そんな私に興味があるらしく、無邪気に「水蛇」体験を勧めてくる。まったく浅い。男に奪われることはあっても女にはない、と思っているに違いない。甘い。
まだまだ男性のほうが圧倒的に好きなので、可能性はかなり低いけれど、それを「絶対無い」と言い切ってしまう人生より「わからない」と可能性を残すほうを、私は選びたい。
つまり私はそういう人生、可能性を自ら拒まない人生を生きたい、ということなのだ。
***
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
絵はクリムトの「水蛇I」
今回はかなり手を入れました。あのころといまでは同性愛に対する社会的な認識がずいぶん変化しています。
そして私はといえば、残念ながら未経験。すきなアーティストたちはみなバイセクシャルなので、いまではもはや劣等感となっています。
