●美術エッセイ『彼女だけの名画』17:パリ、ピカソの凄まじい性愛
2025/11/10
「君が好きだ」「前世では恋人同士だったと思うよ」「このまま朝まで一緒にいないか」……。
口説き文句には色々あるけれど、私が経験したなかで、いちばん強烈だったのは、これ。
「今日は口説くために来た。その気がないならすぐに帰る」
逢うのは2度目、はじめて食事をした夜だった。ひとによっては「目的はそれだけ? 馬鹿にしないでよ」と席を立ちたくなるような露骨なひとことなのだろう。けれど私は怒りを微塵も感じることなく、好感をもった。ひととのつきあいにストレートさを求める私のフォルムに、彼のそれがぴったり合ったのだろうと思う。
そのとき私にはつきあい始めて3ヶ月の恋人がいたので、この誘惑におおいに揺れたのを覚えている。なぜなら、私は彼に「あの感覚」を感じていたからだ。「彼の胸に顔をうずめたい」という、私が恋愛感情をもったときの衝動を。
そのときの行動に関しては明言を避けるとして、口説き文句には、そのひとの資質が70%くらい出るものだと思う。それまでは、いい男だなあ、と思っていたのが、そのひとことを聞いてがっくり、なんてのも少なくない。
自分が言われたのでなくても、映画や小説のなかできらりと光る口説き文句に出合うことがある。
私のなかでのナンバーワンは、ピカソ。
ぞくっとするほどのインパクトがあった。
あるとき、パリの街角をぷらぷらと歩いていた45歳の画家は、メトロから出てきた人混みのなかに美しい金髪の女性を見た。
彼女こそ、そののち長きに渡ってピカソのミューズとなる当時17歳のマリー・テレーズなのだが、彼女に一目惚れしたピカソは彼女の前に歩み寄り、こう言った。
「私はピカソだ。一緒に偉大なことをやろう!」
一緒に偉大なことをやろう。
天才と呼ばれる芸術家から、こんなことを言われたら、私だったら喜びのあまり気絶する。
さすが、次々を女を虜にしていったピカソだけのことはある。口説き文句も一流だ。
もともとピカソ好きの私は、このエピソードを知ってますます彼への熱をあげた。パリのピカソ美術館でこの絵を観たのは、ピカソ熱がぐんぐんと高まっていた、そんなシーズンだった。
瞬間、信じられない、という思いにくらりとした。
私は恋をすると自分のエネルギーを100%相手に向けてしまう。いままで、すべてそうだった。彼を愛しいと思えば思うほど、彼のすべてと私のすべてが溶け合ってひとつになってしまえばいい、という気持ちが強くなる。なのに男女の結合には限界があって、それがたまらなくもどかしく、無理を承知で、でもなんとかすこしでも彼を取りこみ、彼に取りこまれたいと格闘する。彼が怯むほどの強さで、そうだったと思う。
私の欲望を、これほどまでに「そのまま」表している絵に出逢ったことはなかった。
絡み合う、というよりはお互いを貪るように肉体をぶつけ合う、暴力的なまでの抱擁、性愛の世界。
男性器を思わせる鼻が、目を閉じた女性に侵入する。それだけでは足りずに舌を絡ませ、手や足も、どちらがどちらのものなのか、区別がつかないほど、めいっぱい互いのなかに侵入する。
天才ピカソの傑作は数多くあるけれど、これほど凄まじい性愛を描いたものはない。
この絵を観て、からだの奥がじんと熱くなる感覚を直接的に覚えたひとは、たぶん、充たされている。少なくとも性的な意味では。
そうならずに、忘却の湖の底に深く沈潜していた、せつない悦びが浮上してきて、その事実に、それこそ沈んだ思いになるひとは、渇きを感じているはずだ。
……それにしても、と私は絵の前で熱い息をつかずにはいられなかった。
口説き文句にしても、この絵にしても、私は、強引で荒っぽいのが好きらしい。頭では反発することはあっても、からだの真ん中が反応してしまうのだから。
喜ぶべきが悲しむべきか、ピカソ、とはいわないまでも、いま、私の周りに限定してみても、そういう男はとても少ない。
けれど、だからこそ、出逢ったときが熱いのだろう。
きっと、すべてがかすんでしまうほどの欲望に、溺れてしまうのだ。
***
1996年「FRAU」の原稿に加筆修正したものです。
今回のは、しかし、月2回発行の女性誌に、これを書いたんだ、と自分でもすこしあきれます。同時にうらやましくもあります。
書きながら、ときおり、表現をなおしながら、この文章のなかの「私」と現在の「私」がどれほど違うのかと考えたのですが、つきつめてゆけば、それほど変わっていない、というところに着地。
絵はピカソの「海辺の人物たち」。
