ポルトガル&イタリア旅行記*2日目
2025/11/06
★9/26★無念のポルトフィーノ、コルソ・コモからロンダニーニのピエタ、アルマーニ美術館を経て郊外のモールで力つきる
◾️雨で断念、のポルトフィーノ
なにしろ前夜8時過ぎに気を失っているので朝は早い。私は4時過ぎに目覚め、とろとろとしていた。6時近くになってYが目覚めたので出かける準備を始める。
部屋の窓から空を見上げれば雨。ひんやりとした空気が頬にふれる。冷たい雨がぱらついている。
Yがiphoneを眺めながら落胆して言った。「やっぱりポルトフィーノも雨だ」。
ポルトフィーノ。美しい海辺の街をYは楽しみにしていた。
「ポルトフィーノの景色を背景に写真を撮るんだー」と言って、ブルーモーメントからの私の本『私を救った言葉たち』と『愛をめぐる言葉たち』、それからリブロアリアのいくつかの香水を持ってきていた。
けれど予報通り雨。
「残念だね」
私は心から言った。
なのに「嬉しそうに聞こえるけど?」とYがからんでくる。
いや、あなたが残念がっているのに嬉しいだなんてそんな。ただ、チャンスが巡ってきたと思ってるだけよ。
美しい海辺の街に興味がないわけではないけれど、ミラノでは、運まかせにしている場が一つだけあった。
今回の旅のスケジュール、目的(ミラノはY仕様)からして、行けないだろうと思っていた。いや、無理をすればスケジュールにねじこめたかもしれない。けれどその場は、そんなふうにして行く場ではなかった。でも機会があったなら、それは行きなさいという啓示、運命ね。そんなふうにとらえていた。
「ミラノで1日ゆっくりできるなら、ロンダニーニのピエタにぜひ」と私は言った。
◾️異様なほどにご機嫌なコルソ・コモ
出かけるころには雨がちょっとあがっていて、うっすら青い空も見えていたので、徒歩で30分ほどのところにあるカフェに行き、朝食をとることになった。
「ここは東京で言えば丸の内のようなところだよ、大企業がいっぱい」というYのざっくりな説明を聞きながらウォーキングっぽく元気に歩いていたら突然、空中庭園があらわれて驚いた。建築家のステファノ・ボエリによる「垂直の森」。
タワーマンションがほんとうに空中庭園のように見える。みごとだった。すべてのマンションに空中庭園を義務づけたらどれほど都市が美しくなることだろう。
さて、目的の店は「EL &N Gae Aulenti 」、ロンドン発の最近人気のカフェらしい。ひたすらにかわいい空間になぜか照れて落ち着かない。なぜだろう。自分が似合わない場所にいるという確信からか。
うきうきとしたYにそんな想いを隠しながら、おもにYが吟味して(シェア前提なので)パンケーキと、それからアボガドとかポテトとかマッシュルームとか、そんなのがきれいに盛られた朝食プレートをオーダー。(プラダカフェのときもそうだったけれど、どうも食事の内容には熱が入らない。ごめんねかわいいカフェ)。
それから雨が降りそうだけど降らない街を歩き、スペイン発のMANGOで、寒いミラノを歩くためのジャケットとアナ・ウィンターごっこをするためのサングラスを購入。
写真を撮りながら、また街を歩き、Yのお目当てのセレクトショップ「10 Corso Como ディエチ・コルソ・コモ」に到着。
1991年に「Vogue ヴォーグ イタリア」の元編集長カルラ・ソッツァーニによって作られたお店。
世界のトレンド、選りすぐりの服や雑貨、画集やデザインブックが贅沢な空間で美しく売られている。
私はコルソ・コモのオリジナルデザインがとても気に入った。ぐるぐるしていて好み。
書籍販売スペースではトークイベントが開催されていた。40人くらいの人が熱心に聞き入っている後ろ姿に、しばらくトークイベントしていないなあ、とぼんやり思う。
コルソ・コモのエントランスもグリーンが美しく、長い時間を過ごしてもいいな、と思える、そんなところだった。
このセレクトショップがある「コモ通り」は洒落たブティックやカフェが並んでいて、気分がうきうきとジャンプするかんじになってきた。
なので、この通り好きです、のハートマークをつくって写真など撮ってしまった。
機嫌はかなりよい。異様なほどにハイと言ってもよい。ポルトフィーノは残念だったけどね、ほんとだよ。
やがて雨が降ってきたので、タクシーをひろって、スフォルツァ城 (スフォルツェスコ城)へ向かった。
タクシーを降りることには雨が強くなってきていたので、広場の売店で折りたたみの傘を購入。私は赤、Yは黒いのを。
「ブツゾウまで遠いの?」
Yを見ると目が半分くらいしか開いていないではないか。「自分が興味のないところへハハのつきあいで行く」という状況が睡魔を呼んでいるにちがいない。
ここで、旅行前にしたYとの会話を記しておこう。
「ミラノもフィレンツェも、美術品の宝庫だよ、ほんとに何も見なくてもいいの? ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』も、フィレンツェのウフィッツィ美術館も?」
グルメやショッピングだけではない芸術鑑賞もたのしめる、そんな旅を。ということを提案したくて、私がYくらいの年齢のころに始めたのが「アートサロン時間旅行』。小さなカルチャーサロンみたいなもので、「ちょっと知的にウフィッツィ美術館」なんていうのもテーマでとりあげていたから、どうしても言いたくなってしまうのだ。
そんな私にYはきっぱりと言った。
「いまは美術館に興味がないんだ、って自分に言えるようになって、すっきりしたんだよー、いまはそこにいる」
ヨーロッパを訪れたなら各地にある有名な美術館に行かなくては、なにかが間違っているのではないか、なにかが足りない旅行をしているのではないか、そんな感覚をずっといだいていたということだろう。
けれど、実際訪れても、どうもおもしろくない、これを無理してすることがあるのか、いや、ない。いまは別のことに興味があり、芸術作品についてあれこれと勉強し、それを鑑賞することに興味が向かないのだ。
そう自分にも、私にも、そして周囲の人たちにも言えるまで、ちょっとした思考のなかにいたのだろう。そしてそれを言えるようになって気が楽になったと彼女は言っている。
なるほどね、オッケー。と私は言った。私は30年前だけど、ミラノでもフィレンツェでも美術館を堪能しているから、そしてそのときの感動が色褪せるのも嫌だし、美術館関係に行かないのは私としてはかまわないよ。
旅行前に私たちはそんなかんじの会話を交わしていた。
だからYは私が見たい彫刻作品のことをブツゾウとか言ってふざけているのだった。
さて。傘をさして歩きながらYを見るとどんどん目が細くなっている。
「もしかして、歩きながら眠ってしまいそう?」
「なんでだろう」とぼんやり言うYの肩越しに売店が見えた。店頭にレッドブルの姿が。すぐさま私はそのエナジードリンクを購入し「おのみなさい」とやさしく強引に飲ませ、Yの「寒いなか、きんきんに冷えたレッドブルをありがとう。手がかじかむ」というクレームを流して足早に歩く。
ロンダニーニのピエタに会える。
ここには20代の半ばのときと30歳のとき、訪れていた。
そのときは城内にぽつりとあったけれど、今回訪れてみたら「ロンダニーニのピエタ美術館」ができていて、ピエタはそこに展示されていた。来られると思わず、調べてこなかったから知らなかった。このお城に収蔵されるまでローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれていたことから「ロンダニーニのピエタ」と呼ばれている。
私はミケランジェロが好きだ。同時代の彼のライバル、レオナルド・ダ・ヴィンチよりもずっと好きだ。『美男子美術館 絵画に隠された物語』でミケランジェロも取り上げたから、じっくりと研究した。
私は彼の弱さが好きだった。自分の容姿の醜さに絶望し、社会との折り合いに苦労し、ときには自死の衝動に駆られる、そんな弱さが好きだった。そんな「弱き人間」が芸術においては「真の人間」になろうとした、そんなところがたまらなく好きだった。
ロンダニーニのピエタはそんなミケランジェロの遺作。
89歳という長い生涯を苦しみながら生きた彼が最後、10年という歳月を費やして、せまりくる死を意識しながら、最後は視力を失いながらも、依頼されたのではなく、ただ創りたいから創っていた、そして未完のまま亡くなった、そんな作品なのだ。
◾️ロンダニーニのピエタ、30年前と現在
ロンダニーニのピエタ。
Yが私をひとりきりにしておいてくれたので、私は「ひとり」になって、ロンダニーニのピエタを感じていた。
いいえ、「ひとり」ではなかった。親友と一緒だった。およそ30年前の親友とのふたり旅。忘れ難い旅のことを私は『私的時間旅行』というタイトルの旅行記にまとめた。出版がかないそうな感触もいくつかあったけれど結局かなわないまま時が経ってしまった。
ちょっと長いけれど、引用する。ふたり旅の終わりに私たちはロンダニーニのピエタの前に立ったのだった。
***
ミラノのガリバルディ駅に着くとすぐにインフォメーションで適当なホテルを紹介してもらった。そして急いでチェックインを済ますとすぐにホテルを出た。ミラノでどうしても見ておきたいものがあり、時間がなかったからだ。
アートへの情熱が冷えつつある今でも、心から見たいと思っていたもの。そして佐和子にもぜひ、見て欲しかったもの。
それは、スフォルッツァ城にある『ロンダニーニのピエタ』、ミケランジェロ最後の作品である。
『ロンダニーニのピエタ』は未完の彫刻だ。
制作している途中でミケランジェロは亡くなってしまった。八十八歳だった。
ミケランジェロといって、まず思い浮かべるのは何だろう。フィレンツェのダビデ像、ヴァティカンのピエタ、最後の審判……。
四年前にイタリアを訪れた時に私はそれらの作品を見ていた。『最後の審判』なんかは、作品から発せられるエネルギーに背筋をきりっと正したものだ。
けれど、私が最も感動したのは、それらではなく、その時初めてその存在を知った、『ロンダニーニのピエタ』だったのである。
ピエタは、たいてい聖母マリアが息子イエスの亡骸を膝に抱き悲嘆している、という形で表される。
が、このロンダニーニのピエタは全く違った。
ある角度からは、イエスがマリアを背負っているように、またある角度からは、マリアがイエスを支えているように、見える、痛ましくも慈愛に満ちた彫刻だった。
未完の作品、ミケランジェロ最後の作品、という要素もなかったとは言えない。けれど私はその彫刻にいたく感動したのだった。
私はとても感動した作品があると、それを再び見るのがこわくなる。
その時の感動が薄れてしまうのが嫌だからだ。
けれどロンダニーニのピエタに関しては、それはなかった。説明するのは難しい。
私はそこに永遠を見た、としか言いようがない。
そして、美術館の閉館ぎりぎりで飛び込んで、他の作品をとばして、ロンダニーニのピエタの前に立った私は、やはり来てよかった、とこころ静かに思った。
私と佐和子の他にひとはいなくて、そこには不気味なほどの静寂があるのだが、石造りの広大な空間のせいか、近くに立っているはずの佐和子の存在が遠く感じられる。
私たちは無言で、かなり長い間、そこにいた。
ロンダニーニのピエタ。
これが、佐和子との二人旅の終着点。
いったいどんな意味があるのだろう。
私はそんなことを考えていた。
やがて佐和子の声が聞こえた。本当にすぐ近くにいるのに、遠くからのそれのように聞こえる。
佐和子は静かにこう言った。「ある意味で、これも結婚なんだね」
その時、どこからか博物館のスタッフがやってきて、もう時間だから出て下さい、と告げた。ちょっと苛立っている様子だった。
私たちは急いで広い城の出口へ向かった。
外に出ると、もう暗くなっていて、いくつかの星と太った三日月が見えた。
なぜか立ち去りがたく、私は「ちょっと座らない?」と佐和子を誘い、門を出てすぐのところの石の上に腰掛けた。
空を見上げた。
「親子なのに」と佐和子が言った。「結婚っていうのはおかしいか。……でも、いだきあっているかんじがした、すごく。魂のいだきあい、っていうことを考えたら、結婚って言葉が出てきたな」
月はとてつもなく明るく、佐和子の横顔がくっきりと浮かび上がっている。
「『足跡』っていう詩を思い出したよ」
白い息を吐きながら佐和子が言った。
「また、おもしろそう」と私は言った。佐和子は笑って、正確に覚えてないから、その内容になってしまうが、と律儀にことわってから話し始めた。
ーーー人生を終えたある男が、自分が歩いてきた道を振り返る。するとそこには二組の足跡がある。
一組は自分で、もう一組は自分と共に歩いてきてくれた主イエス・キリストの足跡。
それを見ながら男は、ああ、あのときはあんなことがあった、と思い返している。
でもある時期、一組の足跡しかないところがある。
思い出すと、そのときはひどく辛い時期だった。
吐くような思いで毎日を過ごしていたあのときに、自分の横にはイエスがいなかったのか。
男は、なぜなのだ、とイエスに問いかけた。
イエスは答えた。
あなたが暗闇のなかで苦しみ惑っていたあのとき、あそこに残っているあの足跡はわたしの足跡です。
男は、それならばわたしの足跡はどこに、と尋ねた。
するとイエスは言った。
わたしがあなたを背負っていたのです、と。ーーー
見上げれば、闇の中、月明かりに浮かぶスフォルッツァ城。
ああ。ロンダニーニのピエタよ、佐和子よ。
人生は美しい。
***
長い引用おしまい。
あれから30年。私にも彼女にもいろんなことがあった。それでも生き抜いてきたね、えらいね私たち、と互いを褒めながらいまもときおりおいしいお酒を飲んでいる。
暗いのも明るいのもふくめて、さまざまな色彩の想いがどっと押し寄せてきて、ぐらりと体がゆれ、涙があふれてきそうだった。
あれから30年。「いまのところ芸術作品には興味がない」と言うYとふたりでロンダニーニのピエタ。
イエスがマリアを背負っているのか、マリアがイエスを支えているのか。角度によって見え方が違う。
親子ということもあり、思った。これはYとの関係にも言えることなのだろう、と。
そして30年前「人生は美しい」と私は書いた。
いまはどうだろう。彫刻のことをふざけて「ブツゾウ」なんて言うYが遠くをぷらぷらしているのが見える。
「人生は何があるかわからない」としか言いようがない。
人生はおもしろい、人生はそれほど悪くない、人生はかなしい……どれも違うような気がする。
人生は何があるかわからないね、でもこの瞬間はたまらない慈愛みたいなのを感じているよ、そんなかんじで私はロンダニーニのピエタにつつまれていた。
濃厚な時間だった。
ミュージアムショップで親友へのお土産を買ってスフォルツァ城をあとにした。
◾️アルマーニ美術館
次に向かったのは「もし雨でポルトフィーノに行けなかったら、行きたいところ」とYが言っていた「アルマーニ美術館」。
美術館ではあるが、ファッションには興味があるということ。
9月4日亡くなったジョルジオ・アルマーニ。91歳だった。
デザイナーの言葉の本『センスを磨く 刺激的で美しい言葉』を書いたときに、彼について研究した。
印象は、びっくりするほどにピカソと似ていた。精力旺盛なところ、傲慢なところ、老いを病的なほどに恐れているところ。私にとって彼はファッション界のピカソだった。亡くなった年齢まで同じ、91歳。
本でアルマーニの言葉は次のものを紹介した。
「よく聞かれる。仕事の原動力、仕事に駆り立てるものは何かと。一種の恐怖心が私を駆り立てる。何かを失う恐怖。現実を直視する恐怖だ」
ドキュメンタリー映画からの引用だ。
この映画のアルマーニはけっして「いいひと」ではない。コレクション前夜、照明から音楽、モデルのアイメイクにまで細かな指示を出し、怒鳴りちらしている。仕事が楽しいようすがなくて、重圧ばかりが伝わってきて見ていて息苦しくなる。けれど恐怖心が自分を駆り立てるという言葉で、なにかすべてが腑に落ちたように感じたのだった。
アルマーニの作品を集めた美術館は、中心部から離れた郊外の、ちょっと寂れた雰囲気の場所に、ものすごい威圧感をもって存在していた。設計は安藤忠雄。
4階あるフロアは中心が吹き抜けで、上から見下ろすとくらりと落下しそうになる。
ファッションウィークだから、きっといつもと違う企画展示なのだろうと思いながらフロアをめぐる。色ごとにドレスが展示されていて、とても楽しめた。
アルマーニはずっと仕事のときに着られる服を提案し続けてきたけれど、夜のドレスは思いきりロマンティックなものを作った。
どのドレスの陰にもアルマーニその人の、そのときそのときの創作の苦しみがある、と思うと胸が熱くなる。
熱心に細部を写真に撮っている人や、おそらく、なにかとても専門的な会話を交わしている人たちのなかを、私はそんな想いに胸を熱くしながら、それでもYとレッドカーペットごっこをしながら回った。
「お母様、今夜のプレミアにはどのドレスを選びます?」
「わたくしはこれにするわ、あなたは?」
「そうね、今夜はこのドレスにしようかしら」
軽薄な会話をひそひそと交わしながら、一通り見終わって、それからお茶をしようということになった。
カフェに入ったとたん、ファッショナブルな人たちでいっぱいの風景にくらり。やはりファッションウィークなのだ。
一番奥の席で赤ワインをゆっくりと飲んだ。
◾️意識不明の危機、郊外のモールにて
アルマーニ美術館を出て、郊外のモールに向かった。
Yが「ミラノ中心部ではない郊外にどんなお店があってどんな雑貨や服があるのか知りたい」と言ったので。
モールでの記憶は曖昧だ。理由は疲労。夜は「今度こそ食べすぎないように注意しながら美味しいイタリアンを」ということでふたりの意見が一致していたのだけれど、私は力なく言った。
「申し訳ないけど、食欲ゼロ。ここで何か買ってお部屋で食べよう」
気を失いそうになりながら、Yに心配されながら、なかなか来ないUberを待っているときに、ひとりの、おそらく地元の女性(私と同年代かな、ふくよかな人だった)が私たちに声をかけてきた。
「ちょっと聞きたいんだけど、あなたたちは日本人?」
うなずくと、その女性はガッツポーズをして「I won アイウォン!」と小さく叫んだ。
何が起きたのか。
気を失いそうなのでぼんやりとその女性の背中を見送れば、その先に夫らしき男性がいて、その男性に向かって彼女は「いえーい」みたいなことをやっているのだった。賭けをしていたのね。中国人か韓国人か日本人か。
こんなふうに関心を向けられたことが嫌ではなく、嬉しくさえあった。
なぜならミラノの街を歩いていても何も起こらなかったからだ。トルコ旅行のときのような「アー・ユー・シスターズ?」「ニーハオ」「コンニチワ」攻撃はもちろん皆無。上海や広州・深圳旅行のときの「ガン見」もなし。このモールではなつかしの「ガン見」があった。それに、少年グループから「アリガトウ!」という声もかけられた。郊外の地元の人たちしか行かないモールだったからだろう。
ホテルに戻った私たちは買ってきたものをベッドに広げた。魚介のマリネやサラダやパンなどを。
けれどそのころにはYも疲労に襲われていて、それでもYは努力して「おいしいね」と言いながらちょこちょこ食べていた。私も、Yの努力に応えるべく、ビールを美味しい美味しい、と飲んだ。
ベッドの上でごろごろしながら食事だなんて、ふたりともお行儀が悪すぎますよ。けれどもうどうにもならない。さらに、途中でうとうとするような状況に。
というわけでこの夜もまた20時過ぎに、ふたりとも気を失うようにしてベッドに吸いこまれたのだった。










