西洋絵画のスーパーモデル

★西洋絵画のスーパーモデル:8「オフィーリア」

2025/11/22

 

■若さゆえの純粋さが招いた 狂おしいほどの愛の行方■

 

 人肌恋しく、やたら感傷的になるのが秋だと思う。

 ゆっくりと音楽を聴いたり、絵画鑑賞をするには最高の時期なのだろう。感傷的であればあるほど、音や絵の「美」に対して敏感に反応できるものだから。

 そして、それと関係があるのかどうか、人との関わりについて(特に恋愛関係)深く想いをめぐらせてしまうのも、なぜか、この季節だ。

 わたし、彼を愛しているのだろうか、そして彼は……

 なんて感じで考え始めて、さらにその問題を相手にも考えさせ、ついに喧嘩、あるいは別れ話にまでゆきついてしまう。

 そんな経験がないだろうか。

 そして、それは年齢を重ねるごとに確実に、減ってきてはいないだろうか。

 恋人との喧嘩や、それに伴う涙が……。

***

 今回は、愛に殉じた乙女として、画家たちに愛されたオフィーリア。

 シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の第4幕で、ハムレットに愛を拒絶され、気がふれて、春の花を手に歌をくちずさみながら川で溺死する、悲劇のヒロインだ。

 ミレーの描いたこの「オフィーリア」を私は数年前、ロンドンのテート・ブリテンで観た。

 画集などではなじみのある絵だったけれど、現地の空気のなかで本物を目にしたときの衝撃はいまでも忘れない。

 草花の鮮やかな緑とあまりにも対照的なオフィーリア。そのうつろげで儚げな表情……。

 

 そのときもそうだったけれど、この絵はいつも私にある体験を思い出させる。

***

 

 あれは22歳の冬だった。

 このひとだけは……と想っていた恋人の口から流れ出した突然の別れの言葉に、私は自分自身をまったく見失った。

 なにを思ったか突如部屋を飛び出してマンションの非常階段を駆け降り、そして交通量の多い4車線の道路に飛び出した。

 幸運にも信号が赤だったので、追ってきた彼に腕をつかまれて何事もなく済んだのだが、それでもしばらく、「しょうがない、しょうがない」とつぶやきながら、ガタガタとふるえていたそうだ(注:恋人談。私にはそのときの記憶がない。ほんと)。

 あとで冷静になって、とても怖かった。自分で自分をコントロールできない、そんなことがあるなんて。

 おそらく、苦しい事実を受け入れたくない、という強烈な願いがそんな行動をとらせたのだろう。

 彼も遠慮がちに言っていた。一瞬だったけれど狂気を感じたよ、と。

 おろかな若さ、悲劇のヒロイン願望、といった言葉で片づけられるであろうこの経験を、私はしかし愛しく思う。

 そして同時に、この10年間で確実に喪失しつつある「若さ」ではない「何か」に対して、ときどき心がひきつれるような淋しさを覚える。

 若さ以外の「何か」。

 きっとそれは自分のなかの、オフィーリア。

 いま、仮に22歳の冬と同じ状況に陥ったとしても私はそこまで錯乱しない。いや、できない。

 ある意味で、狂気を引き起こすのは、「一途な情熱」なのだから。

 ……と、嘆いてばかりいてもしかたがない。

 だから10年前にはできなかった恋愛をしようではないか。

 いろんな経験をしてきたからこそできる、しっとりとした味わい深い、恋愛を。

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◆「オフィーリア」伝説◆

 イギリスが誇る劇作家シェイクスピアの戯曲は、数多くの画家にインスピレーションを与えた。

 特に18世紀後半から19世紀にかけて、ロマン派の画家やヴィクトリア朝の画家の文学趣味と結びついて、数多くの絵画作品が生まれている。

『ハムレット』第4幕第7場。心乱れたオフィーリア溺死のシーンは王妃によって語られる。いままさに愛に殉じようとする純情可憐な乙女は、うつろな瞳で小川の水面に浮かび、古き歌を口ずさむ……。

 この悲劇的最期はミレーをはじめ、ラファエル前派の画家たちが特に好んだテーマだった。

 

 

*絵のタイトル「オフィーリア」

*画家:ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-1896)

 イギリスのササンプトンに生まれる。11歳、最年少でロイヤル・アカデミーの学生となり、19歳のとき「ラファエル前派(イギリス美術界の革新を目指して結成されたグループ)」の創始者の1人として創作活動を行った。「オフィーリア」は、彼が23歳の年に完成させた代表作。

*1999年の記事です。

◆現在の感想

 こんなにたくさんのつっこみを、ぶつぶつと呟きながら書き写したエッセイは珍しいのではないでしょうか。

 これを書いたのは20年ちょっと前でしょう?

 ということは、32歳前後。10年前、22歳のときのクレイジーな行動を、ほほえましいくらいに見て、いまはそれが失われたから、もうそんなふうにはなれない、私のなかの「オフィーリア」は失われつつあるから、と、そんなふうに言っていますが、まだまだ甘いわね、といまの私は思います。

 人は変わらないところもあって、私のなかのオフィーリアは、年齢を重ねても、いなくなることはないし、これを書いてから10年ちょっとあとに、もっともっとクレイジーに乱舞していたのですから。

 だから、いまはもうそんなことはないのよ、なんて、言えません。いつ、老いて幽霊のようになったオフィーリアが私のなかから、じゃーん、と現れるか、わかったものじゃないわ、ってびくびくしています。

 びくびく。

 

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