★絶筆美術館6:シーレ『家族』
2025/11/18
世紀末ウィーンにあらわれた天才エゴン・シーレ。
天才。
これはシーレ自身が自らを語った言葉だ。
なにしろ自分が生まれたときの様子を描いた絵のタイトルが『天才の誕生』。生涯自分の天才を疑うことがなかったのかどうか。あまりにも早く死んでしまったから、疑わないまま逝ったかもしれない。
二十八歳だった。
シーレは短期間で百点以上の自画像を数多く描いた「自画像の画家」として有名だ。全作品中に占める自画像率はゴッホやレンブラントよりも高く、そしてそのいずれも観る者に戦慄を強要する。
気持ちのよい絵ではない。いつも胸に不協和音が鳴り響く。
性への興味が強かった時期でもあったのだろう。自慰をする自画像など、性欲に翻弄される姿をも描いている。ただし、そこに快楽はない。あるのは痛みのみ。
女性のヌード、それも鑑賞用ではなく生身の女のエロスを追求した作品も多く描き、「良識ある人々」からは危険人物扱いされていた。
とにかくシーレといえば、反社会的で反抗的でエロティックな作品を描く画家。
いまでこそ「シーレが好き」と告白することは、ちょっとクールくらいのイメージがあるけれど、当時「シーレが好き」と言うのはよほどの勇気を必要とした、そんな画家なのだ。
その画家の絶筆が、『家族』だった。
■遺影のような懐かしさ
家族。
意外だ、という意味でまず惹かれた。そして、絵のもつ熱量、こちらにうったえかける熱量が半端ではなかったから、ぐっとのめりこんだ。その絵と真剣に対峙することを避けられなかった。
『家族』はシーレが死を予感して描いたものでは、おそらく、ない。
この絵が完成した年、ヨーロッパ全土をインフルエンザが襲った。スペイン風邪と呼ばれたこの疫病は、当時、夥しい数の死者を出し、シーレもその犠牲となった。
一九一八年十月三十一日。二十八歳だった。
「ぼくは死を愛し、また生を愛す」と断言し、死をつねに身近に感じていた画家だったけれど、これほど早くに自分に死が訪れるとは思っていなかっただろう。
厳密な意味での絶筆、最後に描いたものはおそらく病床の妻をスケッチしたものだ。
『家族』はシーレの芸術的絶筆、そのときの画家のすべてを出し尽くして描いた大作であり、シーレの最高傑作のひとつと言われている。
そう、そーレはそのときの力を尽くして描いたのだろう。しかし、これが最後の作品だという意識はなかったはず。なのに、ここにある、遺影のような懐かしさはいったい何事だろう。
家族。夫、妻、そして幼な子という三人の肖像。
男性は画家自身なのか、そして女性はいったい誰がモデルなのか。妻のエディットには見えない。まったく似ていない。そして二人の間に、実際に子どもはいない。
この絵を描いた時点ではシーレも妻も、妊娠に気づいていなかった。男性はかっと目を見開いて胸にごつごつとした指をあてている。シーレのおなじみのポーズだ。女性の視線は斜め下、子どもは斜め上方、宙を見る。この絵に描かれた三人の視線はすべてがばらばらの方向に向かっている。
これはどういうことか。
「家族=幸せ」でないことは、わかる。けれど、このひとたちはいったい誰なのか。シーレはこの絵のモデルが誰なのかを言わないまま死んでしまったから、観る人によってさまざまな意見があるようだ。
私にも私なりの考えがある。
それを述べるために必要ないくつかのことを語りたい。
■母と息子の確執
シーレはオーストリアの、父親が国有鉄道に勤務するごく平凡な家庭に生まれた。
しかし、シーレが十四歳のときに父親が狂死。
原因は梅毒で、これは長い潜伏期間を得て発狂に至る性病なのだが、当時はそのことは知られていなかった。シーレはだから父親が狂死したという事実に、発狂の遺伝を恐れていた。
一方で家柄には誇りをもっていた。
「僕の中には、古きドイツの血が流れている。そして、僕は自分のなかに先祖たちの存在を感じる」
シーレには姉一人と妹一人、そして母親という家族が残された。一家でただ一人の男性である彼に託された責任、期待は重いものだった。母親はシーレに、まっとうな一家の長を期待した。しかし、シーレは芸術家だった。
母親と息子の間には悲惨なほどの無理解が横たわっていた。
たとえば、父親の墓をめぐってのこんな手紙が残されている。
「おまえのことをあんなに愛してくれたお父さんのお墓がみじめな状態のままなのに、おまえは浪費してばかり。おまえは、あらゆる人たちやあらゆることに時間はあっても、哀れな母親のためだけには時間がないのね。神様は許してくださるかもしれないけど、私には許せない」
これはほんの一例。とにかく両者の間の手紙は、どうしたって相互理解不可能な人間同士の書簡の見本のようだ。
けれど、ここで、見逃してはならないのは、シーレはそんな母親に対して、「俺は芸術家だ、そんなことには興味がない」という態度で見捨てているのではなく、母親の態度に苛立ちながらも、自分がいかに頑張っているのか、いまは制作のためにお金がかかるが、きっと成功して、なんとかしてみせる。
そういったことを伝えているということ。
つまりシーレには一家の長としての意識が常にあったということなのだ。
エロティックな絵ばかりを描き、周囲の普通の人たちから危険人物扱いされ、社会的アウトロー的なイメージがあるシーレだけれども、実のところは、育った家庭、母親の影響を強く受けていた。
このことをつい忘れてしまうと、シーレ二十五歳のときの突然の結婚、そして絶筆『家族』がまったく理解できなくなるように思う。
母親とはシーレが二十三歳のころには手紙のやりとりも途絶え、二十五歳でシーレが結婚したときにも母親は出席していない。その三年後にシーレが死の淵にいたときにも、シーレは看病を妻の母に頼んだから、実母とは会わないまま死んだ。
シーレの母親はシーレが亡くなってから十七年生きて、一九三五年に七十三歳で亡くなった。
母と息子の関係は、それがマイナスのものであっても、強烈な摩擦であり、シーレはその摩擦から生じた熱を作品に塗りこめた。
あらためて、そんな視点で作品をピックアップしてみると、母と子、あるいは家族をテーマにした作品は驚くほどに多い。
『死せる母』『天才の誕生』『母と子』『母親と二人の子供』『若い母』『聖家族』『盲目の母』『眠る母親の像』、そして絶筆『家族』……。
いずれもひりひりする母子の姿だ。ぜんぜんあたたかくはない。すくなくとも私はぬくもりをまったく感じない。
そして母親との関係、深い確執は当然、シーレの女性関係にも影響を与えた。
■シーレの翻意、なぜ彼女とではなく彼女と結婚したのか
シーレの最初のミューズは妹のゲルティで、数多くの絵を描いている。次のミューズが、シーレに決定的な影響をあたえ、傑作『死と処女』を描かせたヴァリ・ノイツェルで、彼女はクリムトから譲り受けたモデルだった。
シーレの才能を見出し世に送り出したグスタフ・クリムトは、当時ウィーン美術界のリーダーであった。その作風はシーレとはまったく違っていたけれども、エロティシズムをテーマとしていたところは同じだった。
ヴァリはクリムトのモデルをしていたのだが、クリムトは、多くのモデルのなかからヴァリを選んで、シーレに譲った。
なぜか。
私はエロティシズムの画家クリムトの芸術的な実験だったと思っている。ヴァリはおそらく性に対して才能があり、奔放で、そしてエキセントリック。そしてシーレの芸術の核は「エロス生=性」の探究にあったから、ヴァリのような女性をシーレのなかに投じることで起こるだろう化学反応にクリムトは興味があったのだと思う。
そしてシーレはヴァリをモデルにクリムトの想像を超えるほどの作品を生み出した。作品を見れば明らかだ。まさにヴァリはシーレのミューズだった。
私はヴァリのことがとても好きで、でも、だから書いているのではなく、ヴァリがいかにシーレにとって重要な女性であったのかがわからないと、その後の突然の結婚の衝撃もわからない。だからもう少し続ける。
ノイレングバッハ事件の話をしたい。
ノイレングバッハはウィーンから三十キロほど離れた町で、ふたりはこの町で暮らしていた。
アトリエにはエロティックは絵が散乱しているし、同棲しているモデルはかなり派手、ということで街の人々はこの二人を警戒していた。そんななかでシーレは少女たちを集めてヌードを描いたりしたものだから問題となり、一人の家出少女を泊らせたことがきっかけとなって、「不道徳(猥褻な絵のあるアトリエに子どもたちを入れたこと)」と「未成年者誘拐(真実は家出少女が押し掛けて一晩だけ泊めたにすぎない)」の容疑で逮捕されてしまう。そして彼は二十四日間の獄中生活を送る。
この間、ヴァリは毎日シーレのもとに通い、中に入ることが許されないとなると鉄柵越しに手紙やフルーツを投げこんだ。無茶で一途、このヴァリが私は大好きなのだ。
シーレはのちにこのときのヴァリについて「彼女は高貴だった」と言っている。最上級の讃辞だと思う。
画家のモデルといえば娼婦と同等の扱いをうけていた時代、高貴という言葉がどれほど特別で、どれほど輝いていることか。
シーレは自身の芸術に誇りをもっていた。ヴァリはそんなシーレの芸術を理解し応援していた。シーレはそんなヴァリが誇らしくて、高貴だと言ったのだと思う。
それなのに、そんなにぴったりの相手だったのに、シーレは結婚相手にヴァリではない女性を選ぶ。
名をエディットという。シーレとヴァリの向かい側に住む中産階級の家庭のごく平凡な女性だった。
二人姉妹の長女で、シーレは姉妹のどちらでもよかったのだ、と言う人もいうくらいで、なにか熱烈なものがあったようすはない。
しかし平凡な女性だった、なんて表現、あまりにも安易だろう。猥褻容疑で入獄したこともあり、ヴァリという強烈な女性と同棲している画家との結婚を決意した女性なのだ。一見平凡ななかに何か強烈なものをもっていたのだとは思う。そういう女性は少なくはない。
エディットからシーレへの手紙。
「ヴァリとは別れてくださいね。これは嫉妬のためではありません。二人の新生活を清らかに始めたいからです」
冷静で、まっとうな女性がここにいる。
問題は、シーレははぜ、ヴァリと別れてまで、エディットと結婚しようとしたのか、ここにある。
私は、ここでシーレが育った環境、母親のことを思う。
やはり家柄への誇り、育った家庭で身についたものはシーレから離れることはなかったのだ。ヴァリは娼婦と変わらない扱いをされて当然の階級の女性だ。ヴァリという冒険はしたけれども、冒険を終えて安定した家庭生活を営む時期が来た、とシーレは思ったのだ。
シーレとエディットの結婚式は一九一五年六月十七日。この日取りもシーレが希望したものだった。シーレの両親の結婚記念日。
シーレは、自分が育った家庭から、両親から離れられなかった。
結婚してから一九一八年十月三十一日に亡くなるまでのおよそ三年間、いわゆるシーレの晩年は栄光の予感に満ちたものだった。
一九一四年に勃発した第一次世界大戦でシーレも徴兵されるが、名の知られた画家であるということで優遇され、制作を続けることができたし、エディットとも頻繁に会うことができた。
一九一八年のはじめにシーレの年上の友人クリムトが病死し、三月に開かれたウィーン分離派展でのメインルームはシーレに提供された。
このときに絶筆『家族』は出品された。
出品時のタイトル、つまりシーレ自身がつけたタイトルは『うずくまるひと組の男女』。
子どもが描かれているのに、おかしなタイトルだと思う。のちに誰がつけたのか、『家族』のほうがよっぽどふさわしい。
この絵が描かれたとき、エディットもそしてシーレもエディットの妊娠を知らなかった。気づいたのは一九一八年の四、五月頃、分離派展は三月に開催されている。
『家族』をあらためて観る。
■うずくまるひと組の男女
真ん中の男性はシーレ本人、そして女性はエディット、子どもはこれから生まれるであろう二人の子どもなのか
それとも、真ん中の男性はシーレの父親、女性はシーレの母親、子どもはシーレ本人なのか。
シーレが一歳のときの写真がある。びっくりするほどに、ここに描かれている幼児と似ている。
母の憂鬱、が漂っているようにも見える。シーレの、自分ではないタイプの子が生まれればよかったのではないか、という悲しみも感じる。
その場合の幼子はシーレ自身だ。そして中央の家族を守るように長い腕を垂らしているのも、おかしなことだけれど、シーレ本人、そんなふうにも見えてくる。
あるいは、やはり真ん中の男性はシーレ本人であることにかわりはないが、デフォルメされた長い長い左腕が気になる。男性は、家族を包みこまなければならないと、痛いほどに思いながらも指先は脱力している。これは、それがほんとうに自分がしたいことなのか、という疑問がある証拠ではないか。
そして、女性。
エディットでもヴァリでも、母親マリーでもない、妹ゲルティでもない、特定できない。もしかしたらシーレが深く関わってきた女性たち、シーレがその形は違っても、彼なりに愛した女性たちの複合の面影か。わからない。私にはわからない。
まっとうな結婚をして、画家としても成功、きっとこれから子どもも生まれる。
自分は一家の長として家族を守らなければならない。
この絵を描きながらシーレは何を想っていただろう。
私がこの絵から感じるのは、ある種の人々に共通した、普遍的と言ってもいい想いだ。
結婚し子供をつくる、ひとり、ふたりと子どもを作る。家族の形成。
こういう事柄について、純粋にただひたすらに喜べない人というのが、世の中にはいる。
自分がなにか社会の枠組みのなかに、もう、逃れようのない枠組みのなかに自ら入ってしまったのではないか、という恐れのような悔いのような想い。
子どもが生まれるというそのことが、どれだけ自分の人生を支配するのかという不安。その責任を果たしてゆけるのだろうかという不安。
家族をつくるということを、明るく喜べないひとたちの胸に、この絵は響くのではないかと想像する。
そういう意味で『家族』を描ききっていると思うし、同じ場所にいてもばらばらな視線が、残酷なほどに家族という真実を伝えている。
自分が選んだ道だ。ヴァリを捨ててまで選んだ道だ。そう、「ヴァリと別れたことはシーレにとって芸術的な死を意味する」とまで言われたヴァリを捨ててまで。
そして彼が選んだ道には、それまで当たり前のようにあった、芸術家にとっての必須アイテム「精神的な自由」はなかった。
この絵は、そう考えると、それまでの、ひりひりするほどにとんがっていた、自由だった画家エゴン・シーレの遺影なのだ。
なんて考えすぎだろうか。でもそう考えると、タイトルに納得がゆく。
シーレは三人の家族を描きながらそのタイトルを『うずくまるひと組の男女』としたのだ。タイトルをいいかげんにつける人ではなかった。意味はきっとある。
やはりシーレがここで表現したかったのは、ひとくみの男女であって、けっしてあたたかな家族、ファミリーではなかった。
ここにいるひとくみの男女が、これから直面するであろう子どもをもつことによって生まれる社会との妥協、ある種の平凡性、まっとうな生き方を強要される現実、そういったものに直面し、愕然としている、そういう姿なのだ。
この絵は未完成だと言われる。サインも入っていないし、シーレの左手の描き方もあまい。私にはシーレがこれを描いている最中に、シーレのなかに様々な思いが交錯した様子が想像できる。
これはある意味で未完なのかもしれない。だからサインを入れなかった。
それなのに、一九一八年三月の分離派展に出展している。どういうことか。
ややこしいことに、シーレにとっては未完ではないから、つまり、未完であることが現在の自分の完成形だから、出展したと私は考える。
『うずくまるひと組の男女(家族)』を出展した展覧会は大成功だった。
画家としての地位も経済状態も安定した。肖像画や劇場壁画の仕事も入り、作品の値もかなり上がった。秘書を雇うほどの忙しさだった。
三月の展覧会から三ヶ月後の六月にはアトリエのある家に引っ越しをした。
インフルエンザで、妊娠中の妻のエディットが亡くなるのが十月二十八日、三日後シーレも感染して死んだ。
了
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主な参考文献
「エゴン・シーレ 二重の自画像」坂崎乙郎 平凡社 1998
「エゴン・シーレ」ラインハルト・シュタイナー タッシェン・ジャパン 2001
「永遠なる子供 エゴン・シーレ」黒井千次 河出書房新社 1984
「エゴン・シーレ 日記と手紙」大久保寛二 編訳 白水社 2004年
