私たちの一日

週末の渋谷、ぬるい空気の雑踏を縫うようにしてユーロスペースへ。「月刊ホン・サンス」4本目『私たちの一日』を鑑賞するために。
鑑賞後、親友のりきちゃんとおしゃべりを楽しみながら、ひとつのタルトタタンをつつきながら、この時間がどれほど貴重なのか、しみじみと感じいってしまっていたのは、映画の内容のせいだろう。
そしてまた、この映画を観なければ、できなかったであろう、あることもできた。いいえ、準備はできていて、この映画のあるセリフに背を押されたといったほうが正確。こんなにはっきりと、「このセリフ、この言葉に背を押された」と感じたことはじつに久しぶり。
それは老詩人と若者との会話にあった。若者が詩人に問う。
「生きるとは何ですか? 生きることの意味とは?」
詩人は言う。「生きるとは? 君の質問は、正解を求めている」
それから次のようなことを話す。
ーーー正解はたくさんある。本の数ほどある。君が知っているものもある。全部間違いだ。すべてが誤りだ。だから私たちは、みんなぎこちなくて不恰好。中途半端だ。それで人生を終える。そして、生きている限り、私たちはわからない。生きている限りは永遠に謎だ。事前に分からず、生きていてもわからない。永遠にわからないんだ」
若者はまた問う。
「真理とは何ですか?」
詩人は「また同じ質問だな」と言い、続ける。
ーーー真理なんてこと自体間違いだよ。間違いの間をさまようんだ。私たちには、それを求める能力がないんだ。求められないものは存在しない。
若者は言う。
「じゃあ、ここに存在するのは何です? なんの意味もなく、ただあると?」
詩人は答える。
ーーーただあって不都合があるか? 私たちは、小さなものたちに感謝すべきだ。能力の限り、目の前のものたちを愛し、また感謝する。それだけだ。意味を求めるな。それはただ卑怯なだけだ。
若者は問う。「卑怯であるとは?」
ーーー違うと思うか? すぐに水に飛び込め。すべてを知ってから? それは卑怯だよ。
人生、人生の真理をめぐる会話のなかで、ほかにも響いたところがあった。
ーーー曇りのない目を持ち続けること、これほど難しいことはない。命を捧げる覚悟でようやく持ち続けられるかどうかだ。
ーーー人生は短い。実に短い。だから心配する必要はない。本当に短い。すぐに死ぬ。心配するな。すぐに終わるから。短い時間を何で埋めるかだけ考えろ。死ぬまで何をするかだよ。
若いうちからこんな境地に達していたら、それこそ短い人生を楽しめない。若者にとってたいせつなのは、この境地を自分のものにすることではなく、この日このとき、詩人から、このような話を聞いた、という事実、それだけ。
人生とか愛とかに対して正解は、詩人が言うようにそれこそ本の数ほどあって、もっと言えば人の数だけあって、ということは正解なんてない、正解と主張している事柄はすべてが間違いということになる。「だから私たちは、みんなぎこちなくて不恰好。中途半端だ」。
そうだよ、ぎこちなくて不恰好でいいじゃない、と思った。このところ自分の「正解」に固執していたように思った。短い時間を何で埋めるか。
これ、と思うことがあったから行動してみた。ぎこちなくて不恰好なことをした。
日々、次の本の原稿のことを考え、そして書いている。過去のこと、いま思うことを書いている。どのエピソードもぎこちなくて不恰好で中途半端。そして誰かを傷つけて、そのことについて書いているものもあると意識したとき、安易にそれを扱ってはいけない、扱うなら全身全霊で、とあらためて思った。曇りのない目を、とまでは言わないけれど、私なりの誠意をもちたいと切に願う。
そして2月17日というたいせつな日に、15年ぶりに過ごした家で得た感覚も、かなり強く作用している。