ひとつの言葉の背後にあるもの

文章を、言葉を、行間をあじわう読書の時間は、しずかにゆるやかに過ぎてゆく。
ネットにつながれば暴力的に飛びこんでくる安易な、美しくない文章にどれほど自分が辟易しているのかを実感するとともに、自戒しながらの読書。
恵比寿の有隣堂書店、ちょっとした空き時間に立ち寄って、あいかわらずこの書店はブルーモーメントから出されている私の本を扱ってくれていないなあ、いちばん私が訪れている書店なのになあ、なんてさびしく思いながら、いまの私のための本はないかとぷらぷら。
文庫のコーナーで「石垣りん」の名前が目にとまって、中をぱらぱら。アマゾンのほしいものリストに入れてあるはずの本が二冊あった。『ユーモアの鎖国』と『焔に手をかざして』。
購入して、その日の夜から読み始めた。
かなしい内容ではなくても、涙が誘われるほどに美しい描写に、本を膝において目を閉じる。私は言葉が好きなんだな、ということをあらためて知る。共感もたくさんある。
ーーー私が詩を書く場合、ひとつの言葉の背後にどれだけの経験をひかえ、周囲が私に向かって発するどれだけの問いかけによって、詩句は成り立つのだろう、と考えます。(『焔に手をかざして』「言葉のこと」)
この一節を読んだとき「ほんとにそう」と声に出してしまったのは、確定申告の時期だから。
リラグゼーション関連はとくに、私用ととられがちですので経費にするかどうかご判断ください、という税理士さんからの連絡に、小さく縮こまるようになったばかりだったから。
どちらでもかまいません、よきようになさってください、と返信して、依頼した最初の年、私の仕事のこと、書く内容などについて詳しく説明したことを思い出す。何年かお世話になっていて、それでもやはり私のような仕事の場合は「どこまで経費と考えるか」が、ひどく難しいのだと思う。
石垣りんの詩句と自分の書くものを同等に語るなんておこがましいにもほどがあるけれど、それでも、やはりこの一文なり、この感覚なりはどこから生まれてきたのか、なんてことを考えれば、経費という固いコンクリートでできた決まりごとみたいなものでは、どうにも測れないものは多いはず、なんてことを私もまた考える。
春の風が強く弱くふいて、季節が変わろうとしている夜のエントランスに。