●美術エッセイ『彼女だけの名画』5:ヴァチカン、「最後の審判」
2025/11/10
ヨーロッパを旅していて必ず出会うもの。
ギリシア神話、キリスト教、ナポレオン。
世界最小の国、ヴァチカン市国はまさにキリスト教のパワーが結集された、そんな国だ。
イタリアの首都ローマ市内にある独立国、ヴァチカン市国。パスポートなしで自由にローマ市とを行き来できる。左足、右足、と国境を何度も跨いで不思議な感覚を味わってみる。
目の前に広がるサン・ピエトロ寺院の円柱も、聖ペテロの像も、あまりに荘厳で、一瞬自分が何者か忘れるほどだった。
ひとつだけ残念なのは、現地ガイドの女性だ。彼女は最初から怒っていた。ガイドそっちのけで、日本人観光客のマナーを正す。激しい口調で私たちを叱る。まあ、気持ちもわかる(ようなきもする)けれど、何か違う。「マナー」もたいせつだと思うけれど、たぶん、彼女の役割はそれではない。その土地の印象は、そこで出会った「ひと」の影響を大きく受ける。残念だった。仕事に慣れた人が陥りがちな罠に彼女は嵌ってしまっている。もっともたいせつなことを忘れてしまっている。
そんな彼女が最後にウケ狙いで言った「ローマ法王が昼間変装して市内を徘徊しているとの噂があります、法王捜しもひとつの楽しみですよ!」には当然、誰も笑わなかった。
気持ちを切り替えてヴァチカン美術館へと向かう。途中、郵便局で自分宛の葉書を送った。こんな小さな国家でも自国の切手を発行している。ヴァチカン市国独立までの歴史的ストーリーを想う。
楽しみにしていたシスティーナ礼拝堂はヴァチカン美術館の一番奥にある。ようやくたどり着きなかに入ると、人がぎっしり。おしくらまんじゅうをしているみたいななか、礼拝堂正面壁画、巨大な「最後の審判」を観る。
一度に目に入りきらない巨大な絵を、食い入るように。
ああ、やっぱり、すごい。
礼拝堂のなかはすこし暗くて、絵の細部まではよく見えないけれど、それでも画面から直立不動を強制するような「何か」が放出されている。
キリストが再臨し、人類に最後の審判を下す。審判によって「神の国」に属さないとされたものは「第二の死」とよばれる永遠の死を迎える。
下方に、落ちてくる人間を待つ悪魔の洞窟がある。
頭がくらくらしてくる。
ビクトル・エリセ監督の映画「マルメロの陽光」を思い出す。そのなかに登場する画家が、この絵について語っていた。
「僕は嫌いだ。だってこれは生を全面的に否定している」
彼の言うことも、その感覚もわかる。
けれど、このキリスト。
筋骨隆々としたキリストに生を否定を私は感じない。
「肉体の美は精神の美を反映する」と言っていたミケランジェロが描いた彼の理想が、ここにある。
たしかに宗教改革がもたらした精神的混乱に彼も巻き込まれた。いったい誰が救われるのか、自分は救われるのか、不安と絶望を感じていただろう。
けれどカトリックの総本山の中心であるシスティーナ礼拝堂に、このキリストを描いた、ということ。それは不安、絶望、混乱を突き抜けて、描きたいものを描く、という画家の欲望が何よりも勝っていたとの証ではないか。
しんそこ絶望していたら、自分の理想の姿をキリストに重ねることなどしない。
直立不動なまま私はひとりで昂っていた。誰かに背中をどんと押されて我に返り、礼拝堂を出ると廊下の窓から明るい光が差していた。
ふーっと、大きく息をつく。
濃厚な映画を見たあとに似た感覚が残った。
***
「彼女だけの名画」第5回。ヴァチカン、「最後の審判」
絵画:ミケランジェロ作「最後の審判」
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
*ミケランジェロについては『美男子美術館』で、強い思い入れで書いています。
