●美術エッセイ『彼女だけの名画』4:ウィーン、立ち枯れた「ひまわり」
2025/11/10
「この線、いいよなぁ」
木の枝を思わせるひとさし指が画集をなぞる。
立ち枯れたひまわりの葉、そして茎を、愛しそうに。何度も、何度も。
彼はあの頃、いったい何歳だったのか。五十を過ぎていたようにも思えるし、三十代後半にも思える。
私の友人の恋人である妻子あるその男性は、シーレが好きだった。
友人に「一緒に会って」と頼まれ、きつい言葉を投げかけてみたい思いで出かけたのだが、「ひまわり」を愛しそうに見つめるシワの刻まれた横顔や、ときどき「な、いいだろう?」と私に微笑みかけるときの邪気のない瞳を見ていたら、そんな気は消滅した。
本人たちにしかわからない、感じることのできない「痛み」に対して、無責任な刃を向けるのはやめよう……。
テーブルに置かれたひまわりの絵と、その男性の横顔が私にそう思わせた。
一方で私は、その「ひまわり」を「いい」とは感じなかった。
退廃的で、不健康で、そして不幸の象徴のようだ、と思った。
暗すぎる。
私のイメージするひまわりとは、あまりにも遠いところに、それはあった。
けれどそれからのち、私自身が友人と同じような「確約のない恋」(相手がそう言った)や、仕事での挫折、同僚の死、などを経験するなかで、シーレの「ひまわり」に対する見方が変わってきた。
歳を重ねるごとに、こころに沁みる絵というものがあるならば、この「ひまわり」はその一枚なのかもしれない。
華麗な装飾のカールス・プラッツ駅舎から、カールス教会を周り、ウィーン市立歴史博物館へ。
整然とした街並みを歩きながら、私は「ひまわりの彼」を思い浮かべていた。100年前にこの街に花開いた世紀末文化と彼がやけに合うような気がした。
博物館入口でチケットを買い、三階へ直行する。フロアに足を踏み入れ、周りを見渡した私は唖然とした。私以外に人がいなかった。国内外の美術館を数多く訪れたけれども、こんなのははじめてだった。
「ひまわり」を観るには最高の環境、と感動しつつ、絵の前に立つ。
私の身長よりもわずかに小さなひまわり。
真黒な無表情の顔から細い茎、枯れた葉……と、上から下へ視線を滑らせる。とちゅう、男性の指先が重なる。耳もとに「ひまわりの彼」の声が蘇る。
「な、いいだろう?」
ーーいい。
こころのなかで、あの日の彼に答え、後ろに下がって全体を観る。
シーレが魂こめて描いたであろう、ひまわり。私は長い間、ひまわりと対峙していた。
画集で観たときには目にとまらなかった、ひまわりの足もとに咲く花の明るさに目を細める。
生き物は、この世に「生」を受けた以上「死」から逃れることはできない。じっさい、立ち枯れたひまわりの傍には既にすっかり枯れて茎だけになった姿がある。
けれど同じ土から生まれ出る命。明るい色彩の花々。
この絵はもしかしたら、こんなことを語っているのではないか。
ーー「死」の存在や悲しさ、逃れられない運命、というものを、どこかで意識して、認識して、生きるということ。それこそが「生」に輝きを与える。
それは「暗い、ネガティブな生き方」と対極にある人生の真実。
もう一度、「ひまわりの彼」に会いたくなった。どこで何をしているのか、連絡のとりようがないから無理だとわかっていても、この感覚を話したいと思った。
一度しか会ったことのない、木の枝のような指をした彼は、私が抱いた感覚について、どんな言葉をくれるだろうか。
***
「彼女だけの名画」第4回。ウィーン、立ち枯れた「ひまわり」
絵画:シーレ作「ひまわり」
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
*当事者に迷惑がないように苦労して書いています。ひまわりの彼は、私が愛したひとです。
