●美術エッセイ『彼女だけの名画』3:フィレンンツェ、「ヴィーナスの誕生」
2025/11/10
からだじゅうの細胞が空気に溶けてゆく感覚。
ふわっと異国の人間を包みこんでしまう街。旅行者であっても旅行者ではない、私もこの街の現在を創っているひとりなんだ、と感じさせる街。
私にとってフィレンツェは、いままでに訪れたどの街よりも、私に異邦人である、という事実を意識させない街だった。
旅行者が多いから、というのもひとつの理由なのだろうが、それだけでは説明のできない何かが、たしかにあった。
五百年前にこの街の人々が生み出した、自由で新鮮な空気がいまも残っているから、そんなふうに思えるほどだった。
街をあたたかく見守るサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
街を歩いていてふと上方に目をやるといつでも赤褐色の丸屋根が目に入る。
大聖堂がきれいに見えるカフェに入り、カプチーノを飲んだ。
以前観たテレビ番組で、私の大好きなイタリアの名優、マルチェロ・マストロヤンニが大聖堂について語っていたのを思い出す。たしかこんな内容だった。
「若いころ、ひどく落ちこんでいた時期があった。うなだれてフィレンツェの街を歩いていたとき、夕陽をあびて輝く大聖堂の丸屋根に心をうたれた。いいなあ、と思った。感動した。そして自分もひとに感動を与えるような建築をしたい、と人生の目的を見出し、建築家になるためローマへ向かった。そしてそこで映画監督フェリーニと出会った。だからもしあのとき、大聖堂に感動しなければ、僕は俳優になっていなかったかもしれない」
感動が人生の方向を示す、ということ。
カップをテーブルに置き、丸屋根を眺める。……たしかに、いい。
マストロヤンニの影響はもちろんあるけれど、建築物で心和む想いを感じたのははじめてだった。
カフェを出て、いよいよ、という期待とともに、ウフィッツィ美術館へ向かう。フィレンツェを訪れた目的のひとつである、あの「ヴィーナス」に会うために。
西風ゼフュロスの風を受け、貝殻に乗ったヴィーナスが私の前に降り立つ。恥ずかしそうに両手でからだを隠しながら、そして彼女は春の女神フローラの差し出すマントを見にまとうのだろう。
「愛と美の女神ヴィーナス」であるのに、生身の女となんら変わらない。いや、そのもの、だ。
そして左側の男女。
西風ゼフュロスと彼の恋人クロリスのエロティックな姿態。絡めた脚の艶かしさに頬が熱くなる。意味深に舞う薔薇の花。
私は絵の美しさよりも、その生々しさに圧倒された。
やっぱりそうだった。
本物を目の前にして、私は確信した。
画家ボッティチェリは、ここにギリシア神話の神々を描いたのではない。人間の女性のからだの美しさ、そして男女の愛欲を描いたのだ。
ルネサンス、という新しい時代の情熱。厳格なキリスト教と封建制に抑圧されていた「人間性」を解放した、市民の、芸術家の情熱。
そこから、この人間味あふれるヴィーナスは誕生した。古代以来はじめての「全裸の女」が大キャンバスに描かれた。
ずいぶんと長い間、絵の前から動かなかった。有名な作品だから、私の周りはたくさんの人々。さまざまな国の言語が飛び交う。ささやき合う人々、興奮した口調で語るひと……。
言葉は理解できなくても感覚で、彼らが私と似た心持ちでいることがわかるような気がした。
私は彼らとともに「ルネサンスの空気」をからだじゅうで感じていた。
***
「彼女だけの名画」第3回 フィレンツェ、「ヴィーナスの誕生」
絵画:ボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」
1996年「FRaU」の記事に加筆修正したものです(けれど、この回はほとんど手をいれていません)
