●美術エッセイ『彼女だけの名画』16:パリ、モローの可憐なサロメ
2025/11/10
しずかな風に冬の気配を感じるこんな日は、むしょうにパリに行きたくなる。
ひとにはきっと、自分の体温、皮膚とその空気とがしぜんに溶け合う街というのがある。
私の場合は、パリ。ロンドンでもアテネでもウィーンでもなく、パリだ。
ここ数年、冬になるといつも出かけているので、この季節、あの街の空気が恋しくてしかたがない。
いま、このエッセイのために、モロー美術館の画集を開いたからなおさらだ。パリへの想いを募らせながら、ぱらぱらとページを繰る。
たちまちあの古い館の幻惑的な空気につつまれた。
冬のパリ。
凍るような風に身を竦めてメトロの駅から狭い小道を歩いた。小さなエントランスでチケットを買い、軋む階段をのぼる。
壁という壁を埋めつくしたたくさんの絵が目に飛びこんできた。
薄暗い部屋のなかで、海の底のような深い色彩がうごめいている。それは、絢爛とせつなさが同じくらいの分量で混ぜ合わされたような世界。
有名な一枚の絵の前に立った。
「出現」。
宙に浮かぶヨハネの生首と、それを指差す美女、サロメ。
「サロメ」は、旧約聖書に登場するユダヤのヘロデ王の娘。牢につながれた洗礼者ヨハネに愛を迫るが、彼は拒絶。
ある晩、饗宴の席でサロメは素晴らしい踊りを披露、「欲しいものはなんでも言いなさい」という王に「ヨハネの首を!」と応える。そして、家来がもってきたヨハネの生首、その唇にキスをする。
こうした、いかにも悪女なサロメは聖母マリアやヴィーナスと同じくらい、多くの画家によって描かれてきた。
その時代、それぞれの画家、もちろん解釈は異なる。そんななか、サロメを「超エロティックな女」にしたのが、19世紀イギリスの作家オスカー・ワイルドだ。
彼のサロメは「文学史上もっとも耽美的」と評され、「みだらな情欲をかきたてる」という理由でその公演が禁止されたこともあった。
そして奇才ケン・ラッセルが、このサロメを映画化した。
彼が撮った「サロメ」はすさまじい。
絢爛豪華でエロティックで、サロメを演じた女優の妖しい肉体と身のこなしに、私はそれこそ「みだらな情欲をかきたて」られた。観終わるころには、濃厚な赤ワインをふんだんに飲んだときのように、すっかり酔いしれていた。
私にとってのサロメはまさにこれだった。
だから、モローの「出現」を前に私はとまどった。
なぜなら、このサロメはちっとも悪女なかんじではなかったからだ。
宙に浮かび上がったヨハネは、かっと目を見開きサロメを見据える。首から生々しく滴り落ちる血、暗い光のなか浮かび上がるその生首を、サロメは恐る恐る見つめている。
その表情には、半裸のしどけない姿にはまったく似合わない可憐さがあった。
モローは一生結婚をしなかった。唯一愛した女性は母親であって、彼を同性愛者とみるひともいる。
これが真実が否かは別として、このサロメには、彼の「女に対する幻想」が塗りこまれている、と私は思う。
女の剥き出しの欲望を裸眼で見た男は、サロメを、すくなくともこんなふうには描かない。
私はじっとサロメの、怯えたような可憐な表情を見つめた。
私の視線と画家の視線とが重なった。
画家の瞳を、見た。
それは、けっして悪意ではなく、女性と深く関わった経験のない三十を過ぎた男性が「僕の理想の女性はね……」と語るときの瞳にどこか似ていた。
私、モローの瞳に違う輝きを与える、そんな女になりたい。違うサロメを描かせたい。
館内をぐるりと見渡した。
部屋の隅で絵筆を手に、一心不乱にキャンバスに向かう画家の姿を見た気がした。
***
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。が、この回はほとんど手をいれていません。
これを書いてからおよそ20年後、いまから数年前に、モロー美術館を再訪したことも、すでに懐かしくなっています。
こちらです。
「モロー美術館の空気を私は冷凍保存したい」
