『3つの鍵』のタンゴシーンに思うこと

昨年の終わりのある一時期はたくさん映画を観た。自宅のソファで一日何本も連続して観た。その一本に『3つの鍵』がある。ナンニ・モレッティ監督による作品で、舞台はローマ。
三階建ての建物に暮らす四家族は、いかにも都会の住人らしくつきあいは薄い。それがある事故をきっかけにそれぞれの人生が交錯するという物語。複雑すぎる人間関係、それぞれの家族がかかえる問題がひじょうにリアルに描かれていてスリリングな覗き見をしている気分になる。
登場人物たちはみな、唐突に過酷な状況に放りこまれて、そしてみんながみんな弱くて脆くて自分勝手。それでも人生は続いてゆく。
五年後、十年後、といった時間経過があるから、あれからどうなったんだろう、という興味で引っ張られる。
人生にある大きな問題が起こって傷を負って、その体験によって諦観がただよって、それでも人生は続いてゆく。そして負った傷が癒されるにはやはり十年という月日が必要なのだ。それだってただ、なんとなくトゲトゲしていたものがなだらかになっていく程度で、傷跡はのこるし、これからも似たようなことが起こるかもしれない。
ある問題によって、それぞれの家族が隣人といやでも関わらなければならなくなるわけだけれど、それまでは閉塞的な「家族」という状況のなかに身を置いていたわけで、そこでじつはみんな窒息しそうだったんだ、というところがきびしくて真実でかなしかった。
そんなかんじて観ていたら、ラストシーンでいきなりタンゴを踊る人たちが現れたから身を乗り出した。
たくさんの人たちがタンゴを踊りながら通りをパレードのように進んでゆく。それが「タンゴっぽいペアダンス」ではなく、私がふだんミロンガで踊っているようなアルゼンチンタンゴだったから、心が高鳴った。
都会で生活する人たちに共通の孤独な環境、閉塞的な状況。そこからの脱出。人と人とのコミュニケーションがもたらすちょっとした希望とぬくもり。その象徴としてのアルゼンチンタンゴ。
ちょっと放心状態みたいになった。エンドクレジットが流れてもぼんやりしているような。
胸に沁みて。
私が踊っているのは、この重たく複雑な人間関係を、人生を、描いた映画のラストシーン、人と人とのつながりへのかすかな希望を表現しようとする場面で使われるような、そういうダンスなんだ。
熱い想いがじんわり広がった。
このところ、私にとってのタンゴはいまどんななのか、そして私はこれからタンゴにどのように向かい合っていくのか、そんなことを考えていたから、ひとつの啓示みたいに受けとめた。
楽曲は「milonga clandestina ミロンガ・クランデスティーナ」Franco Piersanti作曲。
秘密のミロンガ、非合法のミロンガといった意味で、イタリアでは公園や広場などで開催されることがある、いわゆるゲリラタンゴ。

