●美術エッセイ『彼女だけの名画』11:パリ、結婚とシャガール
2023/12/28
「結婚」という言葉にふれるとき、小雨の降るあの街角と、一枚の絵を思い出す。
クリスマスシーズンにひとり訪れたパリ。滞在3日目は25日だったため、いくつかのカフェを除いて、ほとんどの店が閉まっていた。モンパルナス・タワー近くのプチホテルを出たときも、通りにはひとがほとんどいなかった。
1キロ半くらいのところにサンジェルマン・デ・プレ教会がある。
その前にある「カフェ・ドゥ・マゴ」で珈琲を飲みながら手紙でも書こうと思った。
細かい霧のような雨の中をのんびりと歩いていた。
途中、ウェディング・ショップがあったので足を止めた。
ショーウインドウに飾られていた一枚のドレス、いまでもよく覚えている。
ストレートのシルエットで、アンティーク調の薔薇の飾りが全身を覆う、濃いアイボリーの美しいウェディング・ドレス。私はガラスごしに長い間、そのあまりの美しさに見惚れていた。
その時期、私には恋人がいた。
結婚は彼側の理由によって不可能な状態にあった。けれど、私は結婚というシステムに興味がなかったし、現状に満足していた、はずだった。彼も私には結婚願望はない、と見ていたと思う。
なのに、そのウェディング・ドレスを見ていたら、突然こみあげるものがあって、じわっと涙があふれてきた。
ひとは、何かしらの外的要素がもたらす自分自身の意外な反応に驚くことがある。そして、その反応によって自分の内に潜む願望に気づかされる。
この経験も、それだった。
そのとき私はたしかに、彼との結婚を望んだ。理屈では結婚に意味を見出すことができなくても、それでも、私はつよく思った。このドレスを着た私を彼に見て欲しい。
そして、翌日訪れたパリ国立近代美術館。
そこで感動した一枚の絵。前日のウェディング・ドレスとその絵との組み合わせ。こういうめぐり合わせにはいつもぞくぞくしてしまう。
本物を観るのははじめてだったけれど、有名な絵だから知らないわけではなかった。なのにひどく感じてしまったのは、前日の体験があったからだろう。
結婚の喜びが画面いっぱいにあふれている、大きな絵画。
花嫁ベラの肩に乗り、祝杯をあげる男、シャガール。
結婚に喜ぶ男女の姿をこんなにストレートに描いた絵がほかにあるだろうか。
嬉しくてしかたない、といった画家自身の笑顔や、ベラの生き生きとした姿に胸が熱くなった。
このふたりが実際、ベラが亡くなるまで幸せな結婚生活を送ったという事実もあったのだろう、「結婚っていいじゃない」と、思った。
絵のなかのふたりの幸せに感染したみたいなかんじだった。
当時の自分の心を覗いてみれば、きっとあったであろう、こだわり。
「結婚を望むなんてかっこわるい、いまはそんなの流行りではない、一緒にいればだたそれだけでいい」
自分はそういうスタンスなんだと思いこんでいた。けれど、あのウェディング・ドレスを見て、こみあげてきた想い、絵のなかのふたりから得たよろこび。
美術館のカフェで珈琲を飲みながら恋人を思った。
結婚はまだまだだろうけれど、すなおになろう。「結婚っていじゃない」と思う自分を認めよう。
だってそれもたしかに私自身なのだから。
そう思いながら最後の珈琲を飲みほしたとき、シャガールの絵のなかの人物のように、ふわっと体が軽くなったような気がして、おかしかった。
***
「彼女だけの名画」第11回。パリ、結婚とシャガール
シャガール作「ワイングラス(杯)をかかげる二人像」
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
*おそらく当時の恋人は、資格試験モードで、それに合格しないことには結婚もなにもない、という状態だったはず。