●美術エッセイ『彼女だけの名画』16:パリ、モローの可憐なサロメ
2020/08/26
しずかな風に冬の気配を感じるこんな日は、むしょうにパリに行きたくなる。
ひとにはきっと、自分の体温、皮膚とその空気とがしぜんに溶け合う街というのがある。
私の場合は、パリ。ロンドンでもアテネでもウィーンでもなく、パリだ。
ここ数年、冬になるといつも出かけているので、この季節、あの街の空気が恋しくてしかたがない。
いま、このエッセイのために、モロー美術館の画集を開いたからなおさらだ。パリへの想いを募らせながら、ぱらぱらとページを繰る。
たちまちあの古い館の幻惑的な空気につつまれた。
冬のパリ。
凍るような風に身を竦めてメトロの駅から狭い小道を歩いた。小さなエントランスでチケットを買い、軋む階段をのぼる。
壁という壁を埋めつくしたたくさんの絵が目に飛びこんできた。
薄暗い部屋のなかで、海の底のような深い色彩がうごめいている。それは、絢爛とせつなさが同じくらいの分量で混ぜ合わされたような世界。
有名な一枚の絵の前に立った。
「出現」。