●美術エッセイ『彼女だけの名画』22:パリ、ルーヴルのあのヴィーナス
2020/08/26
ルーヴル美術館の薄暗いコーナーで、注意深く一眼レフを構える。
フラッシュ撮影は禁止されているので、ぶれないように、シャッターを切らなければならない。高感度フィルムを入れてはいたけれど、これは絶対に失敗したくない一枚だ。
被写体はクラナッハのヴィーナス。小さな絵だからこれを見つけるだけで苦労した。何度も係員のひとに「クラナッハ、ヴィーナス」を繰り返してようやくこの絵の前にたどり着いた。
旅行前、恋人に「おみやげリクエストは?」と尋ねたら「別にいらないけど、あったら、クラナッハのポストカードでも」と言ったから、ミュージアム・ショップで探したけれど見当たらなかった。それでも私はどうしても持って帰ってそれを彼に渡したかった。
カードがないなら写真を撮ろう、そう思って、この絵の前に来たのだ。
すこし意地になっている自分を認めていた。撮るなら完璧に撮りたかった。
レンズを通してヴィーナスを見つめる。
ぞくりとするような切れ長の目は、私ではなく、私の横の誰かを誘惑しているようだ。一瞬、それが私の恋人であるような気がして、カメラをもつ手に力を入れる。
フレーミングが決まらない。いったんカメラを下ろして、恋人が魅せられているヴィーナスの裸体をじっくりと観察した。
ひとめ見ただけでわかる、均整を欠いたスタイル。小さな乳房と膨らんだ下腹、長すぎる脚。
そして派手な金髪の巻毛に朱の帽子。重厚な首飾り。そして隠すためではなく、見せるために手にする透明なヴェール。
画集を見ながらの彼との会話を思い出す。
「無条件降伏。理屈抜きに降参、て感じだよな」
「その魅力はいったい何?」
心中穏やかではない。そして彼はそんな私の様子を察することはない。
「フェロモンだろ」
あっさり答える。