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★公開★絶筆美術館9(最終回):フリーダ・カーロ『VIVA LA VIDA!(生命万歳)』

2023/12/28

 絶筆美術館、最終回はフリーダ・カーロのスイカの絵です。
 9人の画家の絶筆について書きましたが、フリーダについてのこの小文は、格別な想いがあります。最終回ということもあり、公開します。
 多くの方々に読んでいただけたら嬉しいです。
 ラストには本文でふれている「ラ・ジョローナ」の動画もあります。この動画ではフリーダ本人、作品も観られます。

 出版される予定だった原稿をいまここに書きながら、生きるということについて、考えて、胸がざわざわとしています。フリーダ・カーロの絵には、そういう力がいつもあるのです。

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 フリーダ・カーロという強烈な個性をもつ画家、傷ついた自画像で有名な彼女の絶筆は、スイカの絵だった。

 フリーダ・カーロ。一九〇七年生まれ。メキシコの画家。濃い顔。つながった眉毛、口ひげ、色鮮やかな民族衣装、花籠のように結い上げられた髪、家じゅうのものをすべて身に着けたかのようなアクセサリー。観る者を震撼させる絵。

 

■VIVA LA VIDA(生命万歳)は本心か

「私は生涯で二度事故に遭った」とフリーダは言う。

 一つ目の事故は十八歳のときの交通事故。

 彼女が乗っていたバスと路面電車とが衝突し、鉄のパイプが腹部から子宮を貫通、十八箇所を骨折するという大怪我を負う。誰もが死んだと思った。
 奇跡的に生還するけれど、その後遺症は、生涯に三十数回の手術を経験させることになる。そこに数回の流産が加わる。最晩年には右足を切断している。

 二つ目の事故は夫ディエゴ・リヴェラとの結婚。

 彼は息をするように女を抱いた、と言っていいくらいの男でフリーダはこれに苦しみ、自殺未遂も何度かしている。
 そして苦しみを紛らわせるように自分自身も奔放な関係を男女と持った。
 ふたりは結婚し離婚し、また結婚している。これだけみてもわかるように、かなり特異な、けれどどうしようもなく決定的なカップルだった。貞操でしばりあって安心している人たちには理解できない、そういうカップルだった。

 最後は痛みと鎮痛剤のなかで生き、四十七歳で死んだ。

 「私の絵は苦悩の表現」と言うフリーダは、自画像の画家だ。

 私は苦しい、苦しんでいる、こんなに苦しんでいる。肉体の痛みに、愛ゆえの胸の痛みに!

 血が流れ、呻き声や叫び声が、実際ほんとうに聞こえてきそうな自画像はすべて、彼女が言う通り苦悩の克明な記録だった。

 だからこそ最後の絵は胸をうった。

 自画像ではなくスイカという意外性に加えてそこにあるメッセージは有無を言わさない力があった。

 好きな画家について尋ねられてフリーダの名をあげたとき、その凄絶な人生を語ったあと必ず私は最後にこう言った。

 それなのに、絶筆が生命力に満ちた、ほんとに命そのものみたいなスイカの絵で、しかもそこには「VIVA LA VIDA(生命万歳)」って描かれているんです。それって、すごいでしょう、感動的でしょう、もう、言葉を失うくらいに胸にぐっとくるでしょう。

 けれど、私自身がフリーダが死んだ年齢を超えたあたりから、ほんとに、フリーダは心から人生万歳、生命万歳、命ってすばらしい、人生は美しい……そういう意味のことを言ったのだろうか、生命讃歌の絵を描くぞ、と決めて描いたのだろうか、と疑うようになった。
 年齢を重ねてずいぶんひねくれたということもあるし、私自身もフリーダほどではないにしろ、それなりに人生に激しく絶望し苦しんできたということもまたあった。

 そんなに綺麗に死ねるものなのか。

 フリーダ晩年の絵日記を手に入れてからはなおさらだった。

 個人的な日記とはいえ、すでに有名な画家の日記だ。公にされることを意識しなかったはずはない。それでも、依頼されて制作した作品よりは、生々しい声がある。
 理不尽なほどに夫を愛しているという声、さびしいさびしいという声、痛みをうったえる声、友人たちへの感謝の声。自殺を望む声。

 それらを眺めていると、また思う。

 この絵日記を描いていた同じ時期に絶筆を描いたのだと。

 フリーダがスイカに生命万歳と描き入れたときの心情はいったいどのようなものであったのか。

 

■メキシコとスイカ

 フリーダの絵全体に言えることだけれど、スイカの絵も、画集で観てイメージするよりもずっと小さい。ベッドで描くことが多かったから大きな絵は不可能だった。縦五十二センチ、横七十二センチ。小さな画面いっぱいに、みずみずしく、重々しいスイカが七つ、描かれている。

 この絵がこんなに強烈に迫ってくるのは、ほかの果物はひとつもなくすべてスイカで構成されているということもあるだろう。

 同じころに、さまざまな果物がテーブルに置かれた静物画を描いているけれど、このスイカの絵が、こんなに強烈に迫ってくるのは、ほかの果物はひとつもなくすべてスイカで構成されているというが、たしかにある。

 スイカはメキシコでは特別な意味のある果物だという。
 なぜならスイカの緑、白、赤は、メキシコ国旗と同じ色だからで、だから、スイカだけを描くということは、確実に意味があるはず。
 ちなみに国旗の緑は希望を、白は信仰、赤は独立戦争のときに流れた愛国者の血を表している。

 

 この絵を観たとき、最初に何に目がいくだろう。やはり画面下、文字が描かれている半円形のスイカだろうか。

 それとも右下の切り口がぎざぎざのスイカか、左のまっぷたつに切られたスイカか。

 私はやはり、文字が描かれているスイカに目がゆく。

 けれどその後ろの、切られていないまるごとのスイカの存在感にも圧倒されるものがある。
 濃い緑のスイカ、傷ひとつないスイカ。国旗の意味、緑=希望を、そのスイカに重ねて、傷ひとつない身体を表すものとして、まんなかに置いたとしたなら、フリーダの想いに胸の奥がしんとなる。

 これと対照的なのが向かって右、ノコギリの歯のようにギザギザにカットされたスイカで、ほんとうに痛々しい。

 フリーダの身体、切り刻まれた身体がそこにあるようだ。

 十八歳のときの交通事故以来、身体の痛みがない時期はなかった。
 とくに最後の十年、三十代の後半からはひどかった。病状が悪化し、まさに毎日が痛みとの闘いだった。痛み止めの注射を打つように頼まれた友人が、注射のしすぎでかさぶたに覆われた皮膚を見て躊躇しているとフリーダは苛立って言った。

「よくさわってみて! 柔らかいところが見つかったら針を刺して!」

 その様子は夫ディエゴに「僕にもしその勇気があれば殺すのに……フリーダの苦しみをこれ以上見ていられない」と言わせるほどのものだった。

 スイカのとがった断面にきっとフリーダは重ねていた。手術のときのメスや身体に食いこむコルセット、交通事故のときに子宮を貫通した鉄パイプを。

 けれど、フリーダへの同情をためらわせるような医師の言葉がある。

 フリーダは「手術願望症候群」であり彼女の外科手術のほとんどは不必要なものであったと言うのだ。 
 もちろん本人は、「私は手術が好き」だなんて思っていなかった。けれど、潜在的な願望があったとすれば、理由は二つ考えられる。

 ひとつは、壊れた骨のために手術を繰り返し、痛みと闘いつつ絵を描く、というのはフリーダの自己イメージだったということ。

「一年間病床にあった。脊柱を七回手術した。……いまだに車椅子、いつ歩けるかわからない。石膏コルセットは恐ろしい重荷。当然ながらしばしば絶望。言葉にできないほどの絶望。しかし私は生きることを望む。……描けるかぎり生きることに幸せを感じる」

 これに類似した言葉がフリーダの人生で何度も繰り返されている。

 もうひとつの理由は、もっと単純でディエゴの関心を引くためだった。

 夫、ディエゴ。フリーダの人生でもっとも重要な存在だった人だ。

 

■ディエゴ、私、心の血

「ディエゴ、はじまり。ディエゴ、私の子。ディエゴ、婚約者。ディエゴ、画家。ディエゴ、私の恋人。ディエゴ、私。ディエゴ、宇宙……」

 もう言葉通りの意味で、ディエゴはフリーダにとってすべてだった。ディエゴをひたすらに愛し、愛されることを望んだ。極端な言い方をすれば、彼と一体化することを望んだ。
 絵を見れば明らかだ。ディエゴはフリーダの自画像のなかで一体化している。自分の額の中央にディエゴがいる絵などはその最たるものだろう。

 しかしディエゴの辞書に貞操という言葉はなく、フリーダの妹とも関係をもつような男だった。
 自伝で「僕の人生でもっとも素晴らしかったのはフリーダへの愛」と言っているから、ディエゴは彼なりにフリーダを愛していたのだろうけれど、フリーダは苦しんだ。そう、苦しんだ。
 自分にとっては全人生である男が、頻繁に他の女と寝ているのだ。どんなに愛しても、自分のところにひきとめておけないという苦しみはフリーダをずたずたに切り刻んだ。

 愛ゆえの苦しみで心から血が流れるとしたら出血多量で死んでいただろう。

 スイカの果肉は血の色だ。フリーダが生涯に流した心の血だ。

 しかし、こういうのを「皮肉なことに」と言っていいのかどうか……、事実として、フリーダはディエゴに傷つけられたとき、傑作を描いている。いつもそうだ。フリーダの絵は、ディエゴから裏切られた、ディエゴからの愛を失った、と感じたときにひときわ輝く。自分はこんなに傷ついている、という叫びと同時に、しかし、こんなにディエゴを愛している、という叫びで輝く。

 ディエゴはフリーダを傷つけることによって、フリーダの芸術に命を与えてきたのだ。

 なんていうのは、部外者の気楽な分析であり、フリーダにしてみれば、晩年動けなくなり、ただディエゴを待つ日々は地獄だったに違いない。
 けれど、手術をすればディエゴが心配してそばにいてくれる。彼の愛情を確認できる。
 母親の愛情をほしがる子どもが熱を出してその関心を引くようにフリーダは手術をした。それも確かにあったのだと思う。

 そして、フリーダとディエゴは似ていた。

 愛情量が人一倍多かったという意味でふたりは似ていた。だからフリーダはディエゴで満たされない想いをほかの男たち、ときには女たちに向けた。有名なところでは彫刻家のイサム・ノグチ、ソビエトの革命家トロツキーがいる。しかしいずれも気晴らしにすぎなかった。

 晩年のフリーダとディエゴには性的関係はなかった。
 しかし、日記にはディエゴに対する肉体的な欲望が濃く表れている。それは過去の情事への愛惜なのかイマジネーションの世界の悦びだったのか、そこははっきりとはわからないけれど、フリーダのディエゴに対する想いは最後まで乾いていない。

 晩年、性的関係がなかったのは、再婚の条件としてフリーダが希望したということもある。
 表向きは「あなたが寝た女たちのことを想うととてもそんな気にならない」というものだったけれど、じつはフリーダは、ディエゴとの間にいままでとは違う、もっと濃厚で香り深い関係を求めたのではないか。
 それはひとことで言えば、エロティシズムだったと私は思う。
 エロティシズムというのは、実際の行為のなかにではなく想像のなかにあるものだ。性的関係はなし、という契約を結んだことでフリーダは現実の嫉妬や失望から解放され、ディエゴを対象とした想像力のなかに生きた。
 これはディエゴのアバンチュールの話を聞いて喜んでいたということにもつながるだろう。

 そんなことを考えていると、スイカの赤い果肉が、なにやらあやしく淫靡にも見えてくる。

 フリーダのなかでうずく欲情の粘膜。

 

■行ってしまう? いいえ。

 しかし左の真っ二つに切られた丸い断面からは、心の血の色とかそういうことではなく、私ははっきりとフリーダの足の切断面を重ねる。

 耐えに耐えてきたフリーダの最後の力を根こそぎ奪った右足の切断手術。壊疽が進行し切断するしか道はなく、その手術は今までに経験してきた骨の接合手術とは意味が違った。あいかわらず友人たちの前では陽気にふるまっていたけれど、手術に先立つ半年間の日記は、右足を失うことへの絶望に満ちている。

 日記の絵のなかでも有名な一枚はこのころ描かれた。上半身ヌード、背には大きな翼が生えた自画像、上部に描かれた言葉にぞっとする。

 Te vas? NO.  行ってしまう? いいえ。

 自殺してしまおうか? いいえ。という自問自答。

 

「足を切断してからフリーダは生きる意欲を失った」とディエゴは言う。

 手術の半年後の日記。

「六ヵ月前に足切断。何世紀分もの苦しみを味わった。正気を失いかけた瞬間もある。いまだ自殺を望む。ディエゴ一人だけが、思いとどまらせている。……生まれてからこのかた、こんなに苦しいことはない。しばらく待とうと思う。」

 しばらく待とうと思う。

 何を? 自殺を。

 自虐的なまでに自己観察をした人だ。足の切断面も凝視したことだろう。半分に切られたスイカに赤い絵の具を重ねながらフリーダが真に描いていたものが何であるかは明白だろうと思う。

 骨髄炎と血行不良による衰弱はゆるゆると進行し、最後の日々が近づき、痛みもますます激しく、しかしそんな過酷な日々のなかでも、ときどき日記に希望や愛や感謝の言葉が並んだ。

 たとえば、「自分を愛する以上にディエゴを愛する。私の意志は偉大だ。私の意志は残る」。

 たとえば、あらゆる人の名をあげて感謝の言葉を連ねたあとで次のように書く。

「……そして私自身に感謝する。私を愛してくれるすべての人々のなかで、私が愛するすべての人々のために生きようとする私のものすごい意志に感謝する……」

 言葉ではいいつくせない絶望が基本にあり、しかし、感謝や希望もまた、あったのだ。

 

 背景の空のようだ。

 半分は白い雲に覆われて、半分は濃い青空が広がる。右半分は曇り空で左半分は晴天。まんなかではっきりと天気が分かれている、不自然な空。
 アルコールや鎮痛剤の影響で、気分のアップダウンが激しかった。やわらかく気持ちの良い恍惚状態になるときもあれば、激しい精神不安に襲われたり、また狂暴になったりした。

 フリーダの精神状態を表している空なのだと思う。

 そして、この空だからこそ、ゆるぎない大地の存在感が増している。

 

■インディオへの誇り

 黒に近い土色の大地は、フリーダが愛した祖国メキシコの大地そのものなのだろう。

 フリーダは自分のなかにメキシコ先住民インディオの血が流れていることを誇りに思っていた。父親はドイツから移民したユダヤ人だったが母親がオアハカ州テワンテペック出身のインディオの子孫だったのだ。

 フリーダのアイデンティがここにあった。

 時代がちょうど「メキシコルネッサンス」、つまりマヤやアステカの古代文化を再発見しようという動きのなかにあったこともあり、フリーダはテワンテペックの先住民の服、テワナ衣装を「フリーダ・カーロの衣装」とする。パリに招かれたときは、テワナ衣装姿でハイファッション誌ヴォーグの表紙となった。

 このメキシコの大地やテワナ衣装は、フリーダの信仰にも通ずるのだろう。メキシコ国旗の白は純粋な信仰を表す。スイカの白い部分、フリーダの信仰はどこにあったのか。

 メキシコ人のほとんどはカトリックだ。
 けれどフリーダは特定の宗教をもたない。大人になってからは共産主義に傾倒し、共産主義は宗教を諸悪の根源としたから、なおさらだった。しかし、フリーダの絵にはいつだって「祈り」がある。ずたずたに傷ついた自画像を描きながらも、そこには祈りがある。特定の宗教ではない。大昔からずっと続いている、アニミズム(精霊、霊魂、神様が自然界に宿る)みたいなものを私は感じる。

 フリーダの絵にはよく骸骨が描かれるし、天蓋つきのベッドにも骸骨の人形がぶらぶらと飾られていた。
 毎日がメキシコの「死者の日」みたいだ。
 毎年十一月の一日と二日に開催されるお祭りは死者の魂が訪れる日とされていて、日本のお盆と意味は同じなのだが、あっけらかんとしていて、どんちゃん騒ぎもあって、死を笑い飛ばしてしまおうという、そんな雰囲気があるのだという。
 なんて魅力的なお祭りなのだろう。私は死ぬ前に一度は、その日にメキシコを訪れてみたいと思う。

 私はこの原稿をフリーダが好きだった歌『ラ・ジョローナ(泣き女)』を聴きながら書いている。

 フリーダの人生最後の栄光のイベントでフリーダが聴きたがった歌だ。

 

 メキシコ初のフリーダ・カーロの個展。

 多くの人でごったがえす会場に救急車で到着した担架の上のフリーダはテワナ衣装にたくさんのアクセサリーで美しく飾り立て、画廊の中央に設置されていた天蓋つきのベッドに横になった。そしてまるで女王のように人々に謁見した。彼女の生涯のなかでも、栄光の絶頂であったと言っていい。

 このときフリーダは知人に『ラ・ジョローナ(泣き女)』をリクエストした。メキシコでは誰もが知るこの民族歌謡がフリーダは大好きだった。歌詞はフリーダのために書かれたかのような内容だった。

苦痛に満ちていたあたしの人生、あたしはもうここに残りたくない……

青空に飛翔して、星の輝きになって、あなたのもとへ舞い落ちる……

澄んだ鐘の音色はやがて弔いの音色になってゆく……

そう、死んでゆくの、あたしと一緒に……

死んでもあたしはあなたを愛し続けてゆく、永遠に変わらない……

 この歌に私はある映画のシーンを重ねる。

 映画『フリーダ』のなかでソビエトから亡命してきた革命家トロツキーがフリーダに身体の具合を尋ねる。フリーダは笑いながらぼろぼろの身体の状態を話し、でも、と続ける。

「人間って、自分が思うよりもずっと苦痛に耐えられるものなのよ」

 この言葉を受けてトロツキーが言う。

「あなたの絵の、そのメッセージが好きなんだ。あなたは誰も自分の個人的な絵に関心はもたないというが、それは違う。あなたの絵は誰もが抱えている想いを表現している。苦痛のなかの孤独を、表しているんだ」

 芸術の本質を言いきっている言葉だと思う。

 徹底的に、自分をごまかすことなく真摯に、自分自身と対峙し創作したものには普遍性がある。
 実際トロツキーが発したかどうか、脚本家の創作だとしても、とにかく、この言葉は私から離れない。

 そしてフリーダの絵のもつ普遍性が『ラ・・ジョローナ』と重なる。
 人生の悲哀、死んでもかわらぬ愛という、人類の普遍的な想いがあるがゆえに愛されてきたメキシコの民族歌謡と、重なるのだ。

 

■二度と戻らないことを願う

 フリーダは四十七歳の誕生日の七日後に死んだ。

 七月六日はフリーダ四十七歳の誕生日だった。

 ディエゴとフリーダの「青い家」での誕生日パーティーに百人もの友人たちが訪れ、フリーダは陽気に過ごした。

 誕生日から六日後の七月十二日、フリーダはディエゴに指輪をプレゼントした。

 およそひと月後は結婚二十五周年銀婚式で、そのときのために買っておいた指輪だった。
 どうしてこんなに早くくれるのかとディエゴが尋ねると「まもなくあなたとお別れするような気がするの」と言った。それから数人の親友にさよならを言いたいと語った。

 その夜十時ころ、ディエゴは医師に電話してフリーダの容態が悪いからと往診を頼んだ。医師が診てみると気管支肺炎で危険な状態だった。夜の十一時、フリーダはジュースを飲んで眠った。ディエゴは眠るまでそばにいたけれど、その後アトリエに帰った。

 早朝四時にフリーダは目を覚まし、痛みをうったえた。看護婦が落ち着かせて眠るまでそばにいた。六時、使用人がフリーダの様子を見に行くと、フリーダは冷たくなっていた。

 七月十三日木曜日フリーダ・カーロは死んだ。
 四十七歳。
 その死因は肺塞栓症によるものだと発表された。

 友人たちのほとんどは、自死したとは考えていない。

 実際、気管支肺炎で危険な状態であったし、最後まで希望を捨てないで闘い続けたと思っている。ディエゴも、フリーダは最後まで生きるための闘いを続けたと言った。

 一方で薬の量を誤ったか、あるいは故意に多く飲んだのではないか、と考える人もいる。看護婦の証言によると睡眠薬が十一錠足りなかったというし、ディエゴも自殺の可能性を完全には否定していない。

 日記の最後の絵は黒いブーツをはき、緑色の翼をもつ天使だ。乱雑に描かれている。最後の言葉はまるで自殺を告白しているようだ。

「出口が悦びであることを、そして二度と戻らないことを願う」。

 

■奉納絵レタブロ

 スイカの絵に文字を描き入れたのは死の八日前だった。誕生日の前日だ。
 三日前には共産党の抗議デモに参加し、大勢の人たちに感謝され、社会貢献したのだという充足感があった。そして明日は四十七歳の誕生日、みんながお祝いに来てくれることになっている。そんなとき、描き入れた文字なのだ。

 私は想像する。

 その日のフリーダは、奇跡的に気分がよかった。
 鎮痛剤デメロールがよく効いているのか、それとも肺炎の薬が強く効いているのか、ふんわりとした気分ですべてのものに感謝したい気分だった。
 三日前のデモの興奮、見知らぬ人々からの歓声、ディエゴや友人たちからの賞賛の言葉、そして明日は誕生日、みんなが私のために来てくれる。明日は何を着よう……。ああ、この感覚を私は表現したい。

 フリーダは看護婦を呼び、ちょっと前に仕上げたスイカの絵を持ってくるように言った。
 いつもの天蓋つきのベッドで、上半身を起こす形に整えてもらい、背にお気に入りのすこし固めのクッションをあててもらう。

 絵筆を握る右手はわずかに震える。手を伸ばしてちょうどよい距離に置いてもらったキャンバスに、黒みがかった赤い色の絵の具を重ねる。

 これが最後の絵になるのだろうか。いや、私はこれを最後の絵にするのだろうか。いつ、私はそれを実行に移すのか。いつそれができるのか。

 そろそろ解放されても許されるだろう。自ら解放するのだ。誰もそれをしてくれないから。しかし、その前にこの絵を仕上げなくてはならない。

 ディエゴ、私の命、ディエゴ。私が描いた絵はすべてディエゴとの間の子どもだった。これが最後の子ども。

 ディエゴが私に何を望んでいるのか私は知っている。

 そう、最後まで果敢に自らの運命に挑戦し続けたメキシコの闘志として、私を讃えたいのだ。だから、私は彼に最高の、最後の子どもを贈る。

 フリーダは正面手前、半円形にカットされたスイカの瑞々しい赤い果肉に、絵筆を置いた。わずかに震える絵筆の先を、それをすることでふるえを抑えるかのように、果肉に押しつける。濃い赤色の絵の具が瑞々しい果肉をゆっくりと走る。

 描く言葉は決めていた。VIVA LA VIDA 生命万歳。人生万歳。……そう、命ってすばらしい!

 その下に少し小さく自分の名を描いた。

 Frida Kahlo フリーダ・カーロ

 さらにその下に自分が生まれ、そして死んでゆく土地の名と死んだ年を描き入れた。

 Coyoacán 1954 México コヨアカン 1954 メキシコ

 

 これは、「レタブロ」だ。

 メキシコには、怪我や病気から快復すると、感謝の言葉を書き入れた「レタブロ(奉納絵)」を教会に納める習慣がある。

 2~30センチの金属板に描かれた素朴な絵で、そこには怪我や病気の人の姿が描かれている。日本の絵馬に似ているが、絵馬がお願いごとなのに対してレタブロは願いが叶ったことへの感謝の表現だ。

 特定の信仰をもたなかったフリーダが最後の最後に描いたのは、最愛の人への贈り物だった。
 そう、フリーダ・カーロの絶筆は、夫ディエゴ・リヴェラへのレタブロだったのだ。

 フリーダは生前の希望通り火葬された。
 火葬を希望した理由が悲しい。ずっとベッドで横になっていたそんな人生だったから死んだあとまで横たわっていたくない、というのだ。

 炉から出てきたとき、遺骨は少しの間その骨格をとどめていた。

 ディエゴは胸ポケットから小さなノートを出してフリーダの骨格をスケッチした。それから灰を静かに集めると、そのひとかたまりを口に入れた。そして集めた灰をゆっくりと赤い布に包み、箱にていねいに納めた。それから周囲の人に言った。

 自分が死んだら自分の灰とフリーダの灰とを、粒子のひと粒ひと粒までよく混ぜて一緒にしてほしい、と。

 それから新聞記者の取材に対して誇らしそうに言った。

「彼女の絶筆は、色彩に輝き、歓喜に満ちたスイカの絵でしたよ」

 

***

◆付記◆

 一九九〇年の夏に東京渋谷の文化村ル・シネマで映画『フリーダ・カーロ』が公開された。
 この映画が製作されたのは一九八四年となっているから、日本公開までにずいぶん時間が経っている。監督はポール・ルデュク、フリーダはオフェリア・メディーナが演じている。
 オフェリア・メディーナは強烈だった。二十年以上経って、二〇一二年に『グッド・ハーブ』という映画を観た。その年の私のベスト3に入る映画だった。このひと懐かしいかんじがする、と思って調べたらオフェリア・メディーナだった。印象的な母親の役を演じる彼女に、フリーダ・カーロが生きていて再会できたような、そんな不思議な気持ちになった。

 十三年後の二〇〇三年の夏に渋谷の文化村ミュージアムで『フリーダ・カーロとその時代――メキシコの女性シュルレアリストたち』が開かれた(各地を巡回)。

 同時期に文化村ル・シネマで映画『フリーダ』が公開された。
 ジュリー・テイモア監督、フリーダをサルマ・ハエックが演じて、話題となった。二〇〇三年の夏に、フリーダは日本で広く知られるようになったように思う。

 二〇〇七年はフリーダ・カーロの生誕百年とフリーダが死ぬほどに愛した夫ディエゴ・リベラの没後五十年が重なった年で、メキシコでは史上最大規模のフリーダ・カーロ回顧展が開かれた。
 フリーダの生家であるメキシコ、コヨアカンの「青い家」は現在フリーダ・カーロ記念館となっていて、ここでも展覧会が開かれた。

 ディエゴ・リヴェラの遺言で封印されていた品々が公開されて、それも話題になった。

 手紙やメモなどの資料が二千点以上、雑誌や本は三千冊以上、フリーダのデッサンや下絵が約百点、ディエゴのデッサンなどが約二百点、フリーダのドレスが約一六〇着、コルセットが約十個。

 二〇一五年には写真家の石内都さんがフリーダの遺品を撮るというプロジェクトをおさめたドキュメンタリー映画『フリーダ・カーロの遺品』が公開された。

 いまでは、フリーダ・カーロの名を出せば、たいてい通じるようになった。

 名前だけではわからなくても、ほら、メキシコの、濃い眉毛のつながった自画像の、と言えばたいていは、ああ、とわかってくれる。

 ファッションの世界でも注目されている。多くのデザイナーがインスパイアされているし、「ヴォーグ」などのハイファッション誌でもフリーダの特集が組まれたりしている。

 フリーダの存在は、その作品も、そして本人の存在そのものが、まったく古びない。
 これはかなり特異なことだろう。彼女は何度も甦る、そんな感じがする。

***

↓ちょっと長めですが、フリーダ本人の写真や作品がありますので、ぜひ。

 

 

 

*主な参考文献

『THE DIARY OF Frida Kahlo』ABRAMS

『フリーダ・カーロ 生涯と芸術』ヘイデン・エレーラ著 野田隆 有馬郁子 訳 晶文社 1988

『フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像』堀尾真紀子著 中央公論社 1991

『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』堀尾真紀子著 ランダムハウス講談社 2009

『フリーダ・カーロ ~歌い聴いた音楽~』上野清士著 新泉社 2007

『ディエゴとフリーダ』ル・クレジオ著 望月芳郎訳 新潮社 1997

『愛と苦悩の画家 フリーダ・カーロ』マルカ・ドラッカー著 斎藤倫子訳 ほるぷ出版 1995

『フリーダ・カーロ――痛みこそ、わが真実』「知の再発見」双書142 クリスティーナ・ビュリス著 遠藤ゆかり訳 監修者堀尾真紀子 創元社 2008

『フリーダ・カーロのざわめき』森村泰昌 藤森輝信 新潮社とんぼの本 2007

『フリーダ・カーロ』アンドレア・ケッテンマン著 ベネディクト・タッシェン出版 1993

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