ブログ「言葉美術館」

■私の美しいお友だちと包容力

2020/11/23

 

 

 右腕から肩にかけての痛みと痺れが強い週で、パソコンのキーボードに向かう姿勢がつらかった。だからというわけでもないのだけれど、たまたま、以前からの予定がいくつか入っていて、出かける日が多く、痛みがまぎれていたのがすくいだった。

 ふたりの女ともだちに会った。

 新刊の準備が一区切りしたら会いましょうと約束していたお友だちだった。

 それぞれ、別の日に、それぞれに、しっとりとした落ち着くカフェで。

 

 六本木のリッツ・カールトンの1階のカフェ。

 半年以上ぶりにお会いした彼女は、最初から、なんだろう、きらめく光の粒子が彼女をとりまいているようだった。いつも、目の保養になるくらいに美しい、私より八歳年下の彼女は、人生の次のステージに進む決意、そしてそれが具体的な形となって決定したことを報告してくれた。

「人生は一度きりしかないから」と、チャレンジしたいことにチャレンジした結果、自分が活かせる場を得た。大変なのはこれからです、と言いながらも彼女の瞳は、陳腐な表現になってしまうけれど、ほんと、輝いていた。ああいうのを瞳が輝いていた、というのだ。

 アールグレイを飲みながら、おしゃべりをした。

 けれど、いつもと様子が違っていたのは、私は、彼女に私自身の話を、かなり深い部分まで話していたことだ。そして、私が話している時間のほうが多かったことだ。

 あとから、あー、あんなことまでしゃべってしまった、おしゃべり女になってしまった、と恥じるほどに。

 私、誰かに聞いて欲しかったのかな。

 そして彼女は聞き上手でもあり、褒め上手でもある。

 私の本のどんなところが好きなのか、を具体的に言ってくれて、こんなテーマでも書いてほしいし、こんなテーマも読んでみたい、と言ってくれた。

 私は、あなたが編集者だったらいいのに、と笑った。一緒に暮らしたい、毎日耳元で、そういうことを言い続けて欲しい、そしたらもっともっと書ける、となかば本気で言っていた。

 別れ際、メトロの構内でハグをしたとき、あたたかな想いが胸からからだじゅうに広がった。それは、ありがとう、という名のあたたかさだった。

 美しいひとには包容力がある、という私の考えは間違っていなかった。

 

 それから数日後に会ったお友だちは、離れていても会わないでいても私のケア担当、みたいな感覚でいつも気にかけてくれている。私よりひとつ年下で、見た目は実年齢よりも10歳くらい若く見えて、すごく可愛い。

 ものすごい知識と経験があるのに、どうしてこんなに可愛らしさを失わずにいられるのだろう。って会うたびに思う。

 そんな彼女と会うときの私はいつも頼りモード。甘えモード。

 彼女は、したいこと、やりたいことで頭のなかがいっぱい、あふれそう、って嬉しそうに話していた。

 彼女もまた瞳がきらきら輝いていた。まぶしいくらいに。

 そして、そのやりたいことのなかに、私とのコラボも入っていて、そんな話もしたのだけれど、彼女と話していて、よく出てくる言葉があって、そのことがとてもこころに残った。

 彼女は私とはまったく別の世界で生きていると思うのだけれど、そんな彼女がなぜ私を見放さないでいるかといえば、私の「せつない」部分を嫌いじゃないからなのだと思う。「せつない」というのが彼女の口からよく出てくる言葉で、私を表現するときに使われるのだった。

 私の暗い部分、弱い気質、私自身は、ほとほとこれがいやだよ、って思っているところを、彼女は、「せつない、とってもせつないものを抱えていて」と表現してくれる。

 そして私の体を心配してくれて、いつもいろんなアドバイスをくれる。その日は私に合いそうな何種類かのビタミンサプリまで用意してくれていた。もう、泣きそうだった。

 そんな彼女が最後にしてくれた話、「こんな話は路子さんにしかできない」と言って話してくれたこと、それがまた愛に満ちていて、もう、私はふらふらに。嬉しさでね。

 

 「こんな話は路子さんにしかできない」

 これが、もしかしたら、私、こんなでも、いいえ、こんなだからこその、存在価値かな。
 だったら、嬉しいな。

 このふたつのティータイムの話にオチはない。

 だた、そんな時間を過ごしたこと、私は彼女たちが大好きだということ。大好きだと思える人が私を好きだと言ってくれる喜び、そんなことを記しておきたかった。

 ふたりとものヨーガ、瞑想、が日常にある世界にいるひと。 

 このあたりも、いろんなことを考えさせられた。

 そして、私が美しいと思うひとには包容力がある。これはもうぜったいそう。それはきっと自分を愛することができているからこその、あたたかな余白から生まれる。

 

 写真は、旧安田庭園。木々のなかを歩くのは久しぶりだった。家族と過ごしたひととき。

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