ブログ「言葉美術館」

■愛は自然死しない。「裏切り」について考える。

 

「愛は自然死はしない。無知と誤解と背信によって息絶える。疲れ果て、衰え去り、色あせて死ぬのだ。」

 アナイス・ニンの言葉。

 原文がわからないので、「背信」でなければならないのか、それとも「裏切り」と訳していいのかはわからない。

「背信」と「裏切り」は、意味が違う。

 どちらも、自分が思っていたことと違うことが起こったときに使うけれども、「背信」は、はっきりと相手との約束を交わしているのに、あらかじめこちらの気持ちを推し量ることなく、まあ、極端な言い方をすれば、騙すようなことを言う。

「裏切り」は相手の気持ちがどうのこうのではなく、自分がそう思っていたことが、自分の思うように進まなかったときにいだく気持ち。

 そう私は理解している。

 だとすれば、今回のこの、久々の「憤り」「怒り」の根源にあるものは「背信」ではなく「裏切り」なのだろうと思う。

 愛は自然死しない。

 この場合の愛って、恋愛だけではない、友情、近親、すべてにおける愛。相手をたいせつに思うこころ。

 

 愛は自然死しない。ほんとうにその通りだな、と思う。

「まさか、そんな仕打ちをうけるとは」と思うようなことがあり、「裏切られた」感に覆われてしまって、それは、呼吸をととのえながら「おちついておちついて、たいしたことじゃない」とぶつぶつとつぶやきながら部屋を歩き回っても、ワインを飲んでも、本を読んでも映画を観てもおさまらなくて、薬の力を借りて眠り、目覚めても、まったく薄まっていない。だから書くことにした。

 そして、アナイスのこの言葉を思い浮かべ、私が受けた衝撃は相手の「背信行為」とは呼べないな、と思ったのだ。だって、契約を交わしていないもの。だとしたら勝手に私がきっと相手はそんなことをしないだろうという希望をいだいていただけの話で、私が勝手に「裏切られた」と思っているにすぎない。

 でも、アナイスの言葉のところ「背信」を「裏切り」に代えても、私のなかではちゃんと、愛は死ぬ。

 こんなに、特定の相手に言いたい言葉があふれて、からだじゅうに充満して、どうにもならなくなったのは久しぶりだ。

 裏切りを感じて、その相手に言いたいことを言えずに自分のなかに飲みこみ、気持ち悪くなり、もうこんな思いは嫌だ、期待したり希望をもったり信頼するのはやめよう、と思うに至る。こういうことを繰り返して、「諦める」ことがどんどん増えてゆく。

 それから私は自分を省みる。

 そしてすべては、私がそういうことをされる人間なんだ、というところに帰結する。どうしようもなくかなしくなって、かなしくてかなしくて人間不信にまでいたる。防衛本能。

 さらにこんなときに限って、このところなかなかなかった、ひとり暮らし状態。

 

 それでもすくいはあたたかな色合いの花。

 2月17日は娘の22歳の誕生日で、家族3人でお祝いをした。そのときの花束。

 花束をじっと見る。おそらく、ここには「裏切り」の香りはない。これも希望なのかな。それでもいい。その希望は今日いちにちをなんとか過ごすことを支えてくれるだろうから。

 自分のなかにまだこんなに強い怒りがあったことにたじろいでいる祝日の午後。さて、これにどう対応しよう。人生短いから怒りの原因をかんぜんに切り捨てるか、それとも、かすかな希望を抱いて、きっとなんらかの事情があったに違いない、と理解しようと努めるか。まだわからない。

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