■愛を恐れない人、感じる人はいつも罰せられる
このところ、ふわふわと足元が頼りない。一歩一歩踏みしめて歩いている感覚がないというか。なにをしていても、そのときはそれなりに没頭したりしているのだろうけど、自分の軸を失ってしまっているから、体の中心から笑うことができないし、多くのきらめきを見逃しているのだろうと思う。
そんなときの一日はひどく長い。原稿に集中しているときはあっという間だというのに、時間がゆるゆると流れていく。これまで私どうやって生きてきたんだっけ、こんなときはどうしていたんだっけ、と立ち往生。
誰も私のことを必要としていない、誰からも求められていないと思う。価値がないと思う。どこか遠い地に行ってしまいたいと思う。書くことなんて何もないと思う。言葉から見放されてしまった。
それでも昨日は一冊の本を読むことができた。
メイ・サートンの日記は何冊か読んでいたけれど、小説ははじめて。サートン自身が自分にとって重要な小説、と言っているから買った『ミセス・スティーブンズは人魚の歌を聞く』。
50代半ばのサートンが70歳の詩人を主人公に書いた小説。70歳の詩人は明らかにサートン自身で、15年後の自分をどのように描いているのか興味深く読んだ。老いがひとつのテーマ。
70歳の詩人のところにふたりのインタビュアーが訪れる。彼らからの質問に答えながら詩人は自分が歩いてきた人生を振り返る。
いくつか響いたところを。
インタビュアーにさびしさと孤独の定義を、と言われて詩人は答える。
「さびしさは自己の貧しさで、孤独は自己のゆたかさよ。」
私が考えるところのさびしさと孤独、とひどく似ていてうなずいた。
ひとは誰でも孤独なんだけど、自分とうまくつきあえているときはさびしさに陥らない。いまの私のように自分とうまくつきあえていない、軸を失っている状態だと、さびしさにしばしば襲われてしまう。
次のシーンは、考えさせられることがたくさんあった。
詩人が過去を回想をしている。
バイセクシャルなので、女性とも恋をしてきているのだが、30歳くらいのときの恋の相手ウイラ(彼女は45歳くらい)から10年前の失恋の話を聞いたときのこと。
結婚生活が破綻しかけていたウイラは35歳のとき20歳の男性と情熱的な恋愛関係をもつ。彼はウイラの家の下宿人。夫、子どもたち含めて家族とうまくやっていた。夫は破綻しかけていた結婚生活への緩衝剤として彼を歓迎していた。けれど、彼はある日突然彼女との関係を切る。そして、家族が集まっているところに若い女性を連れてきてフィアンセなのだと紹介する。その後も一週間下宿人として同じ家に住み続ける。
そのことについてのふたりの会話。
彼はカトリックだから、ウイラとの関係がやましかったのだろう。それにしても、とウイラは言う。
「彼は自分の魂を救わなくてはならなかったかもしれないけど、あんなやり方で救う必要はなかったわ。ほんとうに」
詩人はウイラに言う。
「彼はあなたを愛していたに違いないわ」
それに対してウイラ。自分を嘲笑しながら言う。
「ああ、愛してくれましたとも! 彼はわたしを愛しすぎて、殺さなくちゃならなかったの!」
これに対して詩人。
「わたしだって、愛を恐れない人を殺すのは、愛を恐れる人の特権だってことは知ってるわ!」
詩人と詩人が愛するウイラには共通していることがある。情熱的に人を愛してしまうこと、愛を恐れない人であるということ。
ウイラの言葉をいくつか拾ってみる。
「わたしたちはおかしな時代、情熱がうさんくさく思われる時代に、生きているのね」
彼に去られてあなたはどうなったの? と問われて。
「焼かれて灰になったの」
彼の行為、突然若いフィアンセを紹介したり、下宿人として住み続けるということについて。
「人は自分の不滅の魂を守るためには、とてつもないことをするのよ」
でも、それにしてもどうしてそんなひどいことができるのか、と詩人は憤慨する。それに対して。
「わたしにはわからないわ。でもあなた自身が言ったじゃないの。感じることのできない人は、感じる人を罰するのよ。これは狂犬を射殺するのに似た本能なの。いまではきっと、彼は自己防衛のためにああいうことをやったと言うでしょうね」
そしていま。
「わたしは死んでいたの。でもいまはもう一度生きているわ。心を荒ませて、むだなことだった!」
詩人。
「感情はけっしてむだじゃないわ。それがいまのあなたを作り上げたのよ。だからこそあなたはこの家に来るすべての人に、いまやってるようなことをしてあげられるのよ。それはあなたの冷静さや、すべての人、すべてのものを包み込むあなたのもう一つの面なのにーーわからないの?」
ウイラ。
「人は、他人の役に立つためにめちゃくちゃにされる必要はないわ」
それから詩人ならこういっためちゃくちゃな体験も詩に昇華できるのでしょうね、といった話になってゆく。
愛を恐れない人を殺すのは、愛を恐れる人の特権。
感じることのできない人は、感じる人を罰する。
これはサートンの日記からも感じとれる、サートンがどんな恋愛をしてきたのか、がよくわかるシーン。
「愛を恐れない人、感じることのできない人」から「愛を恐れない人、感じる人」であるサートンはいつも罰せられ、抹殺されてきた、と感じている。もちろん、愛については深い考察をしているから、そういうものなのだとわかってはいるし、自分自身に問題がある、と自省してもいる。
自己憐憫には陥っていない。
けれどやはり、どうにもならないとき、感情がすべてを支配してしまうときには、自分は「愛を恐れない人、感じる人」だから、そうではない人たちから見たら脅威なのだ、というところに立つしかないのではないか。そして、これもまたひとつの自己防衛。
そして私はずっと自分は「愛を恐れない人、感じる人」だと思ってきたけど、どうなのだろう、違うかもしれない、と思い直したりもしている。
どちらにしても、愛を恐れない人も恐れる人も、どちらも傷つく。傷の形が違うだけだ。
ただ、愛を恐れない人は、自分の傷を愛する。なるべく長い間、傷として存在するようにそれを愛でる。
愛を恐れる人は傷ついて、一度はその傷の形を見るけれど、その傷を自分の人生には長くとどまらせない。
そこが違う。
そして再び、私はどっちなんだろう、と考える。いま思うことは、答えは出ないけれど、年齢を重ねるごとに、「愛を恐れない人」が薄まって「愛を恐れる人」が濃くなっているような気がする。その割合はどのくらいなのだろう。
そんなことを考える。
私の部屋は西側を向いていて今日も天気がよいから、これから西陽が強く差すだろう。
まぶしくて背を向けたくなるほどに。