ブログ「言葉美術館」

◆秘すれば花

20161126-3

 BS朝日で再放送中の「五木寛之の百寺巡礼」を、なにか心に響くものがあるといいなあ、と期待しつつ録画しておいて観たら、この作家の、以前からファンではあったものの、あらためてこの作家の、底知れない奥深さにふれて、なにかすくわれたような感覚になった。

 たまたま私が観た最初のは、広島の明王院。いちいち、五木寛之の言葉が胸にささるなか、そのなかでもとくに「本尊 十一面観音立像」を前にしたときの言葉は、私にとって「出逢い」だった。

 十一面観音は「秘仏」なので、扉の向こうに安置されていて、じっさいその姿を見ることはできない。五木寛之はその扉の前に座している。最澄みずからの作と伝えられる観音像が、扉の奥にある。五木寛之は扉の奥のほうを見るようなかんじで次のように言う。

「この秘仏というのも、ぼくは案外いいものだという気がしてしかたがない。秘すれば花、なんて言葉もありますし、仏様というのは、なにもまじまじとライトで照らして眺めるものでもなかろうという気がする。ああ、この奥にありがたい十一面観音が安置されている、そう思うと、それだけで気持ちが満たされるところがあります」

「秘すれば花」。

 世阿弥の「風姿花伝」からのこの言葉は、ぜーんぶ見せちゃったらぜんぜん魅力がない。隠すからこそ、秘密にするからこそ、そこに魅力というものが生まれる、そんな意味なはずだ。

 プライヴァシーってなんだっけ、って言いたくなるSNSの世界ではもう、死語であり、死価値観。死価値観なんて言葉ないか。

 ネットも自分でアクセスして、知りたい情報を選んで利用する、そういうやり方なら嫌ではない。けれど、あるサービスを利用し始めれば、望んでもいないのに、望んでもいない情報がだらだら流れてくる、そういうのもある。私がテレビの番組を録画して観るようにしているのは観る時間も観る内容も、自分でコントロールできるからだ。SNSの世界はテレビつけっぱなし状態という、私が大嫌いな状況とよく似ている。どちらも暴力的という意味で。

 自分が何に美を感じるのか、何を選ぶかという問題なのだろう。

 私は「秘すれば花」を選択する。このことと、表現するということは、まったく矛盾しない。むしろ表現することの根っこに「秘すれば花」がなければならないのだと思う。

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