◆私のアナイス アナイス・ニンという生き方 ブログ「言葉美術館」
◾️不眠とアナイスとウルフと、ここには書けないこと
昨夜は数時間しか眠れなかったから、今夜はどうにかなるだろうと、1時過ぎにベッドに入る。
けれど、3時を過ぎても眠れなくて、ベッドのなかで眠れないでいると、悲しいことばかりが頭を占拠する。ふだん、大切な固有名詞をなかなか思い出せなかったりするくせに、過去の、忘れていたシーンがぐるぐるとまわりだす。
不眠症というのだろうか。このごろひどくなっている。一時期と比べたら、とっても幸せなはずなのに、幸福感と睡眠は仲良しではないのだろうか。
ジェーン・バーキンも不眠症だった。マリリンも、サガンも、ピアフも、そうだった。
五木寛之も、エッセイに書いていた。明け方近くなって、ようやく睡眠薬を飲んでベッドに入ると。
私は睡眠薬が合わなくて、なんかへんなことをしだしてしまうので、こわくて飲んでいない。精神安定剤を代用している。
それも最近は効かなくなってきている。
眠るのを諦めて階下の仕事場に降りて、アナイス・ニンの日記を手に取った。
緊急時に手に取るのはいつもアナイス。
それでも今夜のアナイスは私を助けてはくれない。
唯一、この一文。
「恐怖は過去から生まれるということがわかり始めた」
アナイスは別の意味で使っているけれど、私はこの言葉から、またしても、考えたってどうにもならないことを考え始めた。
具体的なことがここに書けないのがもどかしいけれど。
過去に傷つけてきたひとたちについて、そのときの言葉、状況などを克明に思い出し始める。そして私はもうそういうことをするのが嫌、というより怖いのだな、という結論に達した。
そう、怖いのだ。私はもう怖い場所があることを知ってしまっている。だから、怖いから、なるべく避けるけれど、怖いからそこに行かない、というのではない。根本的ところで、意味が違う。 怖くても、それ以上の悦びが瞬間的にでもあれば、それとひきかえに行く。
抽象的な表現でしかここに書けないのが、ほんとに、もどかしい。
私は、すべてをさらけ出してしまいたい。
ああ。
先日、はじめて出席した文藝家協会のパーティーで、どんな本を書いているのかと問われ、近著をいえば、ほとんどのひとが、ああ、いかにもそんなかんじですね、といった反応をした。
すこし苦い液体が胸にしみる、けれど、そうですか、とほほえむ。
夜がこわくて、不眠でも、昼間から夜遅くにかけて仕事はしている。仕事をしないと生活してゆけないからしている。それから、換金の約束がないから仕事とはいえないものを書いてもいる。
愛するひとたちがいて、愛してくれるひとたちがいて、それでも、こんな想いに打ち沈むのは弱さゆえ。弱さに酔うのはもう飽きたんだから、やめにしたいけれど、涙も出てこないかなしみ、孤独はどうにもならない。
そう。アナイスの日記、37歳のときのに、ヴァージニア・ウルフの入水自殺のことが書いてあった。
ウルフが夫に宛てた遺書。
「 この怖ろしい時代のなかでは、気が狂ってもう生きていけないと感じます。頭のなかで声が聞こえてきて、仕事に集中できないのです。ずっと闘ってきましたが、もうこれ以上は闘えません。わたしの幸福は、すべてあなたのおかげです。あなたは申し分なくいい人でした。これ以上生きて、あなたの人生をだめにすることはできません。」
これについてアナイスは言う。
「驚くほどまっすぐで、率直な言葉だ。これが、英語という言語の多義性を探求しつくし、きわめて抽象的・神秘的・迷宮的な作品を書いた作家の言葉だろうか。率直でまっすぐなのは、すべての真の苦しみがそうであるからだ。このとき初めて、彼女は人間として語ったのだ。」
59歳まで闘ったヴァージニア・ウルフ。
59歳まで、私にはまだ7年ある。
ヴァージニア・ウルフをテーマにした映画「めぐりあう時間たち The Hours」がまた観たくなった。さいきん観る必要性を感じていなかったけれど。もう何十回も観た映画だけれど。私のなかの、おそらく永遠の一本の映画が、観たくなった。
観ながら、仕事場のソファで、眠くなったら眠る、そういうのもいいかもしれない。
もうすぐ4時半。
いまいちばんしたいこと。タンゴを踊ること。