■■切実さと存在感■■
2019/12/20
「あなたたち精神分析医にとっては、愛は薬だ。
ぼくにとっては、病気そのものだ。
愛? それは少々愚かな何かだ、こう言ったほうがよければ子供の遊びだ。
そこでは、それぞれが相手の母親ごっこをする……」
トルーマン・カポーティがフロイト派の精神分析医ラルフ・グリーンスンと「愛」について話をする場面でのカポーティの言葉。
それに対してグリーンスンが言う。
「愛は絆です、二人はおたがいを愛の対象とみなします。彼らは与え合い、もらい合うのです」
これに対してカポーティ。
「二人の人間というより、悲嘆に暮れる二つの存在だ。彼らは絶対に見出すことができないのを知っていながら、それを相手のなかにさがし求めようとする、どうしようもない二つの存在」……
と長々と持論を展開したのち、精神分析医という「人種」に対して毒づいて、
「あなたの愛は人をうんざりさせる愛だ。そういうこと!」
と議論を断ち切って終わる。
カポーティのことは映画『冷血』程度の知識しかないけれど、とても興味深い作家だと、映画を観たとき感じたことはよく覚えている。
おなじ物書きとして共鳴したことも。
精神分析医と作家の愛についてのやりとりは、まったく噛み合っていない。
もともとカポーティは精神分析が嫌いなのだから噛み合うわけもないのだけれど、でも、言葉や感覚が同じもの同士が会話するよりも、言葉も感覚も思想も違うもの同士の会話のほうが、それぞれがもつ意見が明確に浮き出ることがある。
すごくたまーにだけど、ちょっとした会に顔を出したときなどに、似たような体験をする。
私はカポーティの意見に賛成ではないし、グリーンスンの意見にも賛成ではない。
ただ、カポーティのほうが信頼できる。
なぜなら、傷ついた身体、傷ついた心が見えるように思えるから。
自分は安全なところに身を置いて、意見を述べるひとを私は信頼できない。
自分自身の体験から出た言葉でなければ、私は胸をうたれない。
想像力もまた大切だけれど、あくまでも実体験がまずあり、想像力はそれを彩ったり、意味を深めたりするものなのだと思う。
そんなことを考えていたら、この間のこともそうだな、と思った。
偶然に、あるアーティストの歌を聴くことになった。そのひとのことを私は何も知らない。
どんなところで生まれ、どんなところで育ち、どんなふうなひとたちが周りにいて、成長して、いま歌を歌っているのか、どんなことで心が動き、どんな恋愛をし、大切な人を失ったことがあるのかないのか。まったく知らない。
はじけるようなエネルギーで熱唱していて、それは私の胸を熱くした。
けれど、そのアーティストの歌は、その先まで私に影響を及ぼさなかった。
これは何だろう、と考えて、すぐに答えが出た。
切実さがなかった。そして存在感もなかった。
よく存在感があるとかないとか、言うけれど、もしかしたら存在感って切実さと関係があるのかもしれない。
そのひとが舞台に立っただけで、舞台が意味をもつ、毬谷友子のような女優、そのひとがスクリーンに登場しただけで、ほかのすべてのスターが色あせてしまうマリリン・モンローのような女優、そういうひとたちには、切実さがある。
うまく表現できないけど、私はそう思う。そして私も、そこから遠くないところで生きてゆきたいと祈るように思う。