◆―◆―◆―2.私の軽井沢、「夏」―◆―◆―◆
2020/04/22
水が滴り落ちるのではないかと思うほどに、いきいきとした木々の緑が、瞳にたいへん眩しい季節です。
夏。「避暑地」軽井沢の存在価値がぐっと上がり、世間からの注目が集まるため、軽井沢ライフについて問われることが増える季節でもあります。
……ええ。毎朝木立のなかを散歩します。お友達とカフェで過ごす時間も大切にしていますし、ガーデニングが趣味ですので、夕刻涼しくなるのを待って庭の草木をいじるのが楽しみです……。
といった答えを期待されているのを知りつつも、嘘をつくわけにはいかないので、「自然と文化が共存しているところが魅力的」などと、ガイドブックに載っているようなことを口にするはめになります。
私は目的なく歩くことが苦手、また友達が少ないので「軽井沢のカフェでおしゃべり」は月に一度程度。さらに、庭に出て草花をいじっているよりもはるかに、リビングで本を読んだり仕事部屋で夢想したりする時間を好みます。
都会に住む知人のなかには、「もったいない、軽井沢を軽井沢として満喫していない」と指摘するひともいますが、私は私なりに軽井沢を気に入っているわけで、でも、それがうまく表現できなくて、いつもはがゆい想いをしていました。
けれど、今年の夏からは違います。私は、私自身にとっての軽井沢を、「美しい牢獄」と表現することに決めました。
これは、艶やかな姿態と知性を持ち合わせた作家アナイス・ニンの「日記」からの借用です。
彼女が自分の家族や庭、生活のことを「美しい牢獄」と言い表している箇所を読んだとき、私は自己陶酔に満ちあふれたその響きに強く共鳴し、文庫本を膝に置いて、しばし呆然と庭の鮮やかな緑を眺めたものでした。天気のよい昼下がりで、サンルームの開け放したドアからうるさいほどに数種類の鳥の鳴き声が聞こえていました。その風景、状況はまさに美しい牢獄そのものでした。
そして、住むことを意識して初めて軽井沢を訪れたとき、「ここに住みたい」ではなく、「ひっそりと、ここにこもりたい」といったイメージがじんわり胸にひろがったことを、思い出したのです。
ここにこもりたい、と願ったとき私は、くっきりと意識していたのでしょうか。
あふれる刺激物、一方的に流れ込む情報、理由のない焦燥感のなかで、自分が本当に欲しいものがわからなくなるような生活を変えるべきだと。静かな、閉ざされた場所に身を置かなければならないと。きっと、そうすれば、今まで見えなかったものが見えるだろうと。美しく小さな世界、軽井沢以外に、それにふさわしい場所はないと。
意識していました、と言いたいところですが、残念ながらこれらは後から少しずつ少しずつわかったことで、当時は衝動的な直感に背中を強く押されただけでした。
家庭もそのひとつであるけれど、ある種の束縛、不自由さを求めることは、人間の本能的な欲望である、と考えれば、私はその欲望に従って、軽井沢という美しい牢獄に自ら入ったのかもしれません。
そして、アナイスがおそらくそうであったように、そして私自身がそうであるように、そこがあまりにも「美しい」牢獄であったばっかりに、囚われていることへの快楽が生じてきて、逃れようという気になかなか、ならないのです。