■私のブエノスアイレス*12■
2018/12/13
5日目の午後、タンゴシューズ「ネオ・タンゴ」と香水「フエギア」でショッピングをし、ホテルに戻った。
すこし休んで、ゆっくりしたくをしてから出かけるつもりだった。<6>にある「タンゴ・バルド」のときのような失態はおかさないわよ。
「La Juan D'arienzo ラ・ファン・ダリエンソ」のライブ。
大好きなバンドで、映像も何度も観ていて、赤と黒の衣装がとっても好みで、私はこの夜のために真紅のドレスを用意していた。いつからか99パーセント黒一色となったクローゼットに赤いワンピースが加わって、とても楽しみにしていた。
これを着るんだもん。ラ・ファン・ダリエンソのライブの夜は、これ着るんだもーん。わくわく。
(*この日の写真もまた、ない。ルブタンの靴みたいな「レッド・ソール」の「ネオ・タンゴ」と合わせたの)
ほかは全部シワにならない黒いワンピースをスーツケースに入れていたけれど、赤いワンピースはシワになってしまっていたから、事前にフロントからアイロンを借りてあった。準備万端。
ところが。人生一寸先は闇、とはこのことよ。
フエギアでのショッピング中から、くたくたに疲労していたこともあり、いったんホテルに戻ったら、私のスイッチがオフ……、いいえ、暗黒モードになってしまった。
のちに振り返って、「ブエノスアイレス、暗黒の1時間」と名づけることになる、……数時間だったかも、時間の感覚さえない、まあ、そんな時間が、できてしまった。
すべては私自身の性質による。
なんらかの条件が重なり合ったときに、入ってしまう暗黒モード。
他者からの働きかけ(誰かからのちょっとしたひとこと、なんらかの行動)、自らの失敗(コップを割ってしまった、道に迷ってしまった、あるいは雨が降るとか、かんかん照りだとか、風が強いとか、気候条件でさえ、その引きがねになる。もういや。
いまでもときおり、日常のなかでも、そんなふうになってしまうこともあり、数か月前も、神宮前近辺で、雨のなか、軒下でしゃがみこんで動けなくなっていたような。……ぶきみすぎる。
だからびっくりすることでもないんだけど。なにも、こんなときに。とは思う。
赤いドレスにアイロンをかけようとしたら、うまくいかない。お水を入れるところから、へんなふうに蒸気ではなくお水が漏れてきて、それが純粋な水だけではなかったようでドレスにシミができてしまった。
それがきっかけだったのか。
近くのお店で買ってきたサンドイッチがひどくまずかった。
それがきっかけだったのか。
「黒にんにく」の皮がうまくむけない。
それがきっかけだったのか。
もう、いま分析してもよくわからない……ということにしておきたい。
とにかく疲労が極限状態だったのね。きっとそれだけなのよ、情けない。
とにかく、事実として、なにもかも、すべてが嫌になってしまった。
これからメイクをなおすことも、ドレスに着替えることも、タクシーを拾うことも、みんなとしゃべることも、踊ることも、ぜーんぶ嫌になってしまった。
そもそも、体調がひどく悪い。足がぶるぶる震えるほどに気持ち悪いし、こんな状態でミロンガなんかに行けない。
ラ・ファン・ダリエンソ、楽しみにしていたけど、これも運命。そうよ、ライブを聴けなかった、ってことに、きっとあとあと、意味があるのよ。
……と、暗黒モードのときは、こんなふうに思考が泳ぐ。
<6>で書いた、タンゴ・バルドのときの、あの猛烈状態は何だったの私。
すべては自分の気分ということなのね。「好き」では同じくらい「好き」だし、楽しみにしていたのだから。
それでも、それでもね、がんばったの、私なりに。赤いドレスに着替えるまではなんとか、自分の気分と闘いながら、「出かける」方向で動いていたの。
けれど、最後、シューズケースにブラック・スエードのを入れていたとき、ヒールがひっかかったりして、すんなり入れられなくて、ぼとん、と暗闇に堕ちた。
やっぱりだめ。
そして私は半泣きでお友だちに言っていたのだった。
「私、今夜は行けない」
***
話はかなりそれるけれど、この人と暮らしを共にしようと思う人に会ったなら、その人と未知の外国を旅行することを私は強く勧める。経験のある土地ではなく、ふたりとも未知の土地。言語も食事も慣れていないところで過ごしていると、その人の人間性がよく出るから。
そうよ、私のようにね。
条件のよい環境で、ずっと一緒にいない状況なら、いくらでも隠せる「だめだめっぷり」が、未知の土地では出やすい。だから、その人のことをよく知りたい、ましてや、将来を誓い合う、なんてことを考えているのなら、ぜーったい、海外旅行をともにしてからねっ。
私がそうだから、言えること。いばることじゃないのはわかってる。でも、ほんとにそう思う。
……なんでこんなことを力説……。
それた話はおしまい。
もとにもどりましょう。
***
とにかく惨憺たる状況だったわけです。
けれど、「私、今夜は行けない」って言ってから20分後くらいかな、結局、お友だちの冷静なる説得によって、出かけることになる。ただし暗黒モードのままよ。ええ、これまたいばることじゃないけど、これは許して。
出かけることを選択したのは、行ったほうが行かないことよりも面倒なことが少ない、という判断だった。
説得してくれたお友だちはじめ、みんなを心配させることのほうが精神的負担が多い、それだけだった。
そんなわけだから、「Salon MARABU サロン・マラブ」に到着してからも、まともな会話ができない。ワインも飲めない。目を合わせられない。
そんな私に先生がひやかしムードで言う。
「路子さん、黒煙がたちのぼっていますよ……」。
もくもく。
「ごめんなさい、もうちょっと待って、復活するから」と私は答える。
みんな、真紅のドレスをほめてくれる。「ラ・ファン・ダリエンソ・カラーですね!」って。みんなわかっているから、ほめてくれる。これが暗黒モードじゃないときだったら、すっごく嬉しかったのだろうな。
「サロン・マラブ」に到着したのが21時過ぎ。ライブは何時からなのか。きっとまた0時ころなのだろう。
それまでどうやって時間をもたせましょうね。
フロアを踊っている人たちをぼんやり眺めつつ、誘われる気配ゼロなのに目をふせて、踊らないようにする自意識過剰暗黒女……。
(*サロン・マラブ。とーっても楽しそうに踊る人たちの風景)
さて。
そんななか、もうひとり「黒煙が……」と言われていたお友だちがいた。
<4>で「音楽を聴いているときの表情、たたずまいが私は大好き」と書いたお友だち。
(*この写真は別のミロンガのときのだけど、好きな1枚)
彼女を見ると、たしかに黒煙がもくもく。ただし、私のとはちょっと違って「ライブまだですかー。まだー? 私、寝ちゃうわよー」というかんじ。
ふと、私は彼女に声をかけた。
「踊ってくださいません? 踊らないと寝ちゃいそうだもの」
「え。路子さんリードしてくれるんですか?」
「はい、よろしければ。バルドッサだけですけれど、ブエノスのマラブですけれど、もうどうでもいいわ、ってかんじ。踊りましょうよ」
そして、私は彼女と踊った。
途中からだったから、2曲くらいかな。
1タンダ(4曲)が終わって席に戻ろうとしたら、ダンディな男性がパートナーの女性とともに話しかけてきた。
あなたのタンゴは、とってもいい、すばらしい、みたいな言葉を使って、めちゃくちゃほめてくれた。タンゴでこんなにほめられたことはないんじゃないか、ってくらいに。
私はふわん、と胸があたたかくなった。
リードする側でほめられたのが、まあ、どうなんだろう、って気はするけれど、そのお友だちのことを、精一杯美しくリードしたい、って想いはこめて踊ったから、それを見ていてくれて、嬉しい言葉をくれたなら、喜んでうけとろうっと。
このあたりから、少しずつ、精神的には回復してきた(たんじゅん)。
ところが、それと反比例するかんじで、こんどは身体がどうにもこうにも暗黒に(ややこしい)。
待ちに待ったラ・ファン・ダリエンソが登場する直前あたりから、私は必死で吐き気、そして目まいと闘っていた。
ようやく、赤と黒の衣装を身にまとった、メンバーがステージに登場。
私は覚えていないのだけれど、先生曰く、「路子さん、きゃあ、って黄色い声だしてましたよ」らしい。「ほんとうに路子さんはオンとオフの落差がはげしいですね」らしい。
「黒煙」から「きゃあ」。
演奏が始まる。
ステージから、パチパチパチって火花がフロア全体を襲うような、ものすごいエナジー。
たまらず私はお友だちとフロアへ。With 吐き気&目まい。
お友だちは私がきゃあきゃあ言っているので、曲が終わるときには、メンバーの目の前で止まるように動いてくれて、彼らを間近で見られるようにしてくれた。ありがとうっ。
だって、めちゃくちゃクールなんだもん。ラ・ファン・ダリエンソ。長髪のバンドネオンの彼、彼は私のものよ。
彼の名前は、Facundo Lazzari ファクンド・ラサリ。楽団のリーダーであり、第1バンドネオン。
1987年生まれ。私より21歳年下(だからなに)。
ファクンドの祖父は、Carlos Lazzari カルロス・ラサリ(1925~2009)。
「ファン・ダリエンソ楽団」の第1バンドネオンをつとめていた人。ファクンドはおじいちゃんにバンドネオンを習ったの。
Juan D'arienzo ファン・ダリエンソ(1900~1976)って、アルゼンチンタンゴを語るときに外せないマエストロのひとり。
独特のスタイルは「電撃のリズム」と言われて、ダリエンソは「El rey del compas(リズムの王様)」って異名をもつのだと、いまネット検索で知った。
私は、音楽のこと、よくわからないけど、とにかくダリエンソ、ラ・ファン・ダリエンソを聴くと、踊りたくなる。むずむずしてくる。
ダリエンソが1976年に76歳で亡くなってからは、カルロス・ラサリが「情熱と誇りをもって真摯に」「ダリエンソの鼓動を活かし続けた」んですって。
そのカルロス・ラサリも2009年に84歳で亡くなり、2012年あたりからカルロス・ラサリの孫であるファクンド・ラサリ(長髪の彼ね)が「ラ・ファン・ダリエンソ」楽団を本格的に始動させたという話。当時25歳。現在31歳。
メンバーは10人。現在40代がふたり、あとはみんな30代、ぴちぴち。
ところで、ブエノスアイレス出身のお友だちに「La Juan D'arienzo」の名前について、先日質問してみた。
なぜ個人の名前の前に冠詞のLaがついてるの?
答えはこれ。
「La( Orquesta de )Juan D'arienzo、( )のなかが省略されているの」
ずっと謎だったからすっきりしたわ。
ラ・ファン・ダリエンソのライブは、閃光、そのものだった。存在が、音が、パフォーマンスが、すべてが。
このエナジー、どこからくるのだろう。
彼ら自身が演奏を、すっごく楽しんでいることが、くっきりはっきりとわかって、見ているだけで、恍惚状態になる。
こういう熱気、精力はどこからくるのだろう。
そういうのが感じられない演奏と彼らのような演奏との決定的な差異はなんだろう。
いま思うことのひとつは、「表現力」。
自分がどんなに感じていても、それが自分以外の人に伝わらなければ、芸術ではない。絵でも音楽でもそして文学でも。
分野は違っても、考えさせられることがたくさんのラ・ファン・ダリエンソのステージだった。
私はずっとフロアで踊りまくり、朦朧としたまま、たぶんみんなとタクシーで帰り、ホテルの部屋に戻った。ぜんぜん覚えていない。
そのままベッドに倒れこんだ。
メイクもおとさず、ドレスを着たまま眠ってしまったのは、52年の生涯ではじめてのことだった。
ブエノスアイレス、5日目の深夜。
残すはあと1日。もう、こんなになっているのに、最後の1日もまた、容赦なく私に電流を流し続ける。
ブエノスアイレスの大地からふきでるあやしいガスは濃さを増すばかり。
★ラ・ファン・ダリエンソの公式サイト。こちらにメンバーの紹介が。みんな濃い。ぜひごらんください。
★↓「Este es el rey」(これこそが王たるものっ)。ひとりのときに聴くと踊りたくなるからご用心。
★↓こちらは「Juan D'arienzo」。画質悪いけど、指揮しているのがダリエンソそのひと。まさに「電撃のリズム」。
「Loca(狂女)」を指揮する「Loco(狂男)」っぷりがすごい。すきよ、ダリエンソ。あなたのことも。
(2018.11.7)