●美術エッセイ『彼女だけの名画』23:オルセー、パナシェと別れの予感
2024/01/12
すこし熱があるのかもしれない。風邪をひいたのだろうか。顔や体が火照っているのがわかる。
冬のパリ。美術館のなかを暑いと感じたのははじめてだった。
オルセー美術館を出てすぐの小さなカフェで厚手のコートを脱いだ。喉がからからだった。席に着くなり「パナシェ」をオーダーする。ビールとレモネードの爽やかなこのカクテルは、フランスのカフェでは人気者らしい。たいていどこでも飲める。軽くて、そしてとても美味しい。私のお気に入り。
ごくごくとグラス半分ほど一気に飲むと、軽いアルコールとレモンの果汁が体の隅々までゆきわたるような感覚につつまれ、それはやがて微かな酔いにかわっていった。
面白いもので、美術館で実際その前に立ったときにはあまり感じなかったのに、しばらくしてから突然頭に浮かび、離れなくなる絵というのがある。まるで歌のワンフレーズが止むことなくリフレインするときのように。
二度目のオルセー。ドガの「浴槽」がそれだった。
安っぽい、たらいのなかでうずくまり、片手で体重を支えながら、体を洗う女性。
まったく「絵的」ではない。見られていることを意識していない姿態。けれど、その絵が描かれたということは、まちがいなく、その女性を見つめる画家の視線がある、ということだ。
画家は、自分を演出することなしにひたすら体を洗う、そのままの女性の姿に「美」を見出し、彼女を描いた。
私はドガが彼女の姿をデッサンしている場面を思い浮かべた。
そのとき、ある感情がじわっと広がった。胸の片隅に、インクの染みのように。
パナシェを続けてふた口飲む。
タイトルを忘れてしまった、ある映画のワンシーンを連想した。
外国映画によく出てくるシャボンいっぱいのバスタブのなかに美女。
彼女は片手を上方にまっすぐ伸ばし、そして気持ちよさそうに自分の恋人に脇の処理をさせている。剃刀を片手に彼はぎらっとした、けれど優しさも混じった眼差しで、熱心に彼女の脇をゆっくりと丁寧に剃っている。
そのふたりの間に流れている親密で危険な、なんとも魅惑的な雰囲気に私は強い憧れを抱いた。
それは私も恋人にそうしてほしい、という直情的な感覚ではなくて、そのシーンに象徴されるふたりの関係性に対する憧憬だった。
自分の経験と友人たちの話から、男にはふたつのタイプがあるのだと思う。
それは「浴槽」に描かれているような女性の姿をも愛しいと感じる、また恋人の脇の処理を楽しむようなタイプと、そうでないタイプだ。
前者は、たとえば、彼女が化粧をする姿を見るのが好きだ。みずから彼女の髪をいじって好みのスタイルに仕上げたりもする。彼女が裸で部屋を歩き回ることを喜ぶ。
後者はまったく逆で、恋人にいつもある程度よそゆきの姿でいることを望む。シャワーを浴びたあとバスタオル姿でベッドに入るのを嫌がったりもする。
さらに加えれば、前者はシャワーを浴びないで愛し合うのが好きで、後者はそうではない。
私はどちらが好きなのか。
「幸せでいたい私」は後者と答える。なぜなら私の恋人はそのタイプだから。
でもほんとうは違う、と「もうひとりの私」が言う。あの映画のシーンに憧憬を抱いたり、ドガの視線に羨ましさを感じてるのだから、と。
ひとは自分がそうしたい、なりたい、けれどできないことに対してその種の感情をもつ。
恋人に対して、欲求不満の自分を見つけてしまった。
つきあいはじめてまだ一年も経っていない、熱愛の時期としておきたいからそんなことには気づきたくないのに。
一度意識すると止まらなくなる自分の性格を知っている私は、そのとき確かに、別れの予感を感じた。
熱とアルコール、そしてドガの「浴槽」のせいだ。
胸がざわざわとやかましい。
グラスにひと口残っていたパナシェを飲みほした。
ぬるくて、ひどく苦い味がした。
***
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
文中「タイトルを忘れてしまった、ある映画」とは「モダーンズ」。
この映画は私が好きな1920年代のパリが舞台。
いろんなシーンでよく思い出すので、この間DVDを購入したばかり。マイナーだからDVD廃盤の可能性大、って判断して。ここでも書いているって忘れていたからひとりでびっくりしていました。