◆彼女だけの名画 ブログ「言葉美術館」 路子倶楽部

●美術エッセイ『彼女だけの名画』24(最終回):マドリッド、ゲルニカ

2020/08/26

  

 

 はじめて本物を観たのは26歳の春だった。 

 そのためだけに訪れた、スペインの首都マドリッド。 

 ソフィア王妃芸術センターの、その部屋の空気は濃密で、少しひんやりとしていて、そして痛いくらいに厳粛だった。 

 それまで私の前をいちゃいちゃと歩いていたカップルは、静かに お互いの躰を離し立ち竦む。 

 床に座り込んでいる若い男性は、睨つけるように絵を見上げている。 

 支え合うようにして立つ老夫婦、彼らの目は潤んでいる。 

 美術館のひと部屋とは思えなかった。 

 縦3.5m、横7.8mの巨大な壁画。 

 私は絵からできるだけ離れ、床にしゃがみこんだ。 

 オーバー・アクションではなく、あまりにも大きなものにふれて、立っているのが本当に困難だったのだ。 

 モノクロの画面。 

 逃げ惑う人々、死んだ子供、泣き叫ぶ母親、折れた剣を握る兵士の腕、いななく馬……。 

 燃え盛る炎や夥しい血の海の、鮮やかな色彩、そして、耳を切り裂くような悲鳴、嗚咽。  

 ……痛い。 

 膝を抱えたまま動けないでいるのに、躰の真ん中が激しく揺さぶられる。 

 作品を覆う防弾ガラスに気づいて、美術館の入口で持ち物を全て預けさせられ、金属探知装置をくぐらされたことを思い出した。 

 テロを警戒しての厚いガラスは、スペイン戦争がこの国の人々に残した傷痕の深さを物語る。

 

 けれど、そのガラス越しにアネモネの花が一輪、咲いている(画面中央下)。 

「再生」を意味するアネモネが……。 

 泣けてきた。 

 戦争は人類の最も愚かしい行為。 

 そんな事は分かりきっているけれど、だけど、この絵はどんなに多くの本よりも、どんなに多くの人々の言葉よりも、ダイレクトに 強烈に、私に、それを訴えていた。 

 ショックだった。 

 私は絵画からこういう感覚を受けたのははじめてだったのだ。 

 好きな絵、というのとは違う。 

 この絵は私のなかにある、愛とか美に反応する敏感で柔らかい核と同じ核を、強く刺激する。 

 

 作者のピカソと同じく、波乱に満ちた『ゲルニカ』の「運命」はここではとても語り尽くせないけれど、世界の絵画史上これほど 政治的な意味を持つ絵画はないといわれている。 

 ……それにしても、一枚の絵画がこれほどまでに雄弁に、ひとの心に訴えることができる、という事実。

 難しいことを言うつもりはない。 

 私はいつも政治とか、ましてや戦争とは、なんてことを考えて生きているわけではない。 

 それどころか、何より自分がたいせつで、美容健康、恋愛、仕事……、それだけで1日24時間は過ぎて行くのだから。実際は。 

 けれど、そんな私でさえ、感じることができる、ピカソ、『ゲルニカ』のメッセージ。 

 いまなら良くわかる。 

 このマドリッドでの一枚の絵との出合いが、「裸体と感性でふれる芸術」を私のメイン・テーマにしたのだと。  

 

 一枚の絵から生まれる物語。 

 時代を超えて創造されるそれは、絵と自分との間にだけ存在する、たったひとつの物語。 

 ピカソが言ったように、絵というものは「それを観る人の心の状態にしたがって変化し続けるものだ」と、私も思う。 

 だから、敏感でありたい。 

 美、愛、そして痛み、に対して共鳴する五感を、なによりたいせつにしたい。

**

*1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。が、今回のはほとんど手を入れていません。

以前にもこのブログに掲載しましたが、「ゲルニカ」関連なので、ふたたびここに。

アメリカ同時多発テロが起こったとき、ホームページ(いまはもうない旧サイト)に発表した記事です。

 

■■■永遠のゲルニカ物語(2001年)■■■

「今私にできること」の一つとして、「ゲルニカ物語」をまとめてみました。 (2001年秋)

 

■無差別爆撃■

「ゲルニカ」とは、スペインのバスク地方にある古都の名前。

 スペイン戦争中の1937年4月26日、ファシズムのフランコ側を援助したヒトラーのドイツ空軍による無差別爆撃が、ここゲルニカに襲いかかった。
 古都は炎上し、市民数百人が命を奪われた。
 この後の第二次世界大戦中の惨禍に比べれば、その規模は小さなものだったが、当時としては空前の出来事だった。

 ピカソはパリでこの悲報を聞いた。そして『ゲルニカ』を描いた。 

   ■パリ万博のスペイン館■

 ピカソはゲルニカ爆撃に先立つ1937年の1月、パリ万博の「スペイン館」を飾るための壁画をスペイン政府から依頼されていた。

 スペイン政府の目的は、反乱軍(フランコ側)のしかけた内戦によって危機をむかえた共和国政府の立場を、全世界にむけて訴え、援助を要請すること。スペイン館は、ファシズム反対を叫ぶ作品で彩られた。

 このような共和国政府の訴えの中核をなすのが『ゲルニカ』だった。
 ゲルニカ爆撃の写真も展示され、写真の隣にはフランスの詩人ポール・エリュアールの「ゲルニカの勝利」という詩が掲げられていた。

「ゲルニカの勝利」ポール・エリュアール

  1
  あばら家の 鉱脈の 
  田野の 美しい世界
  2
  戦火に耐える顔 凍てに耐える顔
  拒絶に 夜に 傷に 銃眼に 耐える顔
  3
  すべてに 耐える顔
  ここに きみを釘づけにする虚しさがある
  きみの死は 模範となろう
  4
  死 くつがえされた心
  5
  かれらは
  きみに パンと 空と 地と 水と 眠りと
  貧苦との 償いをさせた、
  きみの人生で
  6
  かれらは言った 悧口が望ましいと
  頑健な者には 日糧を惜しみ 狂った者には裁判をした
  施しをし 一銭をさらに二つに分け
  屍体には敬礼をした
  疲れる そのいんぎんさ
  7
  かれらは辛抱屋 かれらは誇張屋
  かれらは ぼくらの世界にはいない
  8
  女たち子供たちも 同じ宝を持つ
  春の若葉の 純粋な乳の
  そして 持続する宝・・・
  かれらの純粋な瞳のなかで
  9
  女たち 子供たちも 同じ宝を持つ
  瞳のなかに、
  男たちがそれを力いっぱい護ってやる
  10
  女たち 子供たちも 同じ赤い薔薇を持つ
  瞳のなかに、
  それぞれに その血を示すのだ
  11
  生きることと死ぬことの 恐怖と勇気
  死は それほどむつかしい でまた易しい
  12
  男たち かれらのためにこの宝が歌われた・・・
  男たち かれらのためにこの宝が浪費された・・・
  13
  現実的な男たちよ
  かれらのために 絶望が 希望を一舐めにする火を養う、
  ともに 未来の 最後の芽をひらこう
  14
  非人たち ぼくらの敵の
  死 土地 醜さ
  それらはぼくらの夜の怠屈な色を持つ
  さればこそぼくらは勝つ。
            (安東次男 訳)

 エリュアールはピカソと親しく、ピカソが『ゲルニカ』制作中、もっとも多くピカソをたずねて、その制作過程を熟知していた人物だ。

 彼の詩は『ゲルニカ』の制作と並行して創られた。戦争の悲惨さに対して、人間の最後の勝利を信じる心情が吐露されている。

■内戦中のピカソ■

 ピカソの作品に熱狂した若い世代の建築家、画家、彫刻家、詩人の多くは、民主主義と自由を守るために前線へ出発した。

 フランスでも、ピカソの周辺のエリュアール、アラゴンら知識人が「共和国スペイン支持」の運動を活発化させていた。ピカソも注意深くスペインのニュースに耳を傾けていた。その様子を、ある女性は次のように回想している。

「1936年の夏までにスペインの内戦は全面化し、長い夏の間、パリでは色々あった。ピカソがそれによって非常に興奮し、心を乱されたことは知っていた、友人たちは、集められる限りあらゆる類の戦争についてのニュースを彼に提供した。彼の反応は彼の目にあらわれた。何かちょっとした言葉をはさむこともあったかもしれないが、決して自分の意見は述べなかった。彼はその場に没頭し、深い関心を払っていたが、耳を傾けるだけだった」

 寡黙な反応。故国スペインに対する深い憂慮がうかがえる。

■フランコの夢と嘘■

 1937年1月に、スペイン政府からの依頼を受けた時、ピカソはすでに内戦と深くかかわっていた。なぜなら、ピカソはすでに反フランコの態度を明らかにしていたからだ。政治的カリカチュア『フランコの夢と嘘』が、それを表している。

 さて、スペイン政府からの依頼は承諾したものの、問題は、何を題材に描くか、ということだった。ピカソはテーマを決めあぐねていた。

(『フランコの夢と嘘』)

 

■ゲルニカの始まり■

 そして、4月26日のゲルニカ爆撃。

 5月1日、これに抗議する史上最大といわれるメーデーのデモが行われた。この日は日曜日だった。いつもなら、田舎の別荘で週末を過ごすピカソ。しかし、彼はこの日、田舎へは行かなかった。そのかわりに、一束の青い用紙をとりだし、そこに走り書きのような馬、牡牛、女の形をデッサンした。

『ゲルニカ』の始まりである。

■絵は生き物のように生涯を生きる■

 黒と白と灰色の画面。

 家が燃え、炎に焼かれながら落ちていく女、こと切れてしまった子供、泣き叫ぶ母親、兵士の屍、折れた剣、白い花・・・裸電球か、爆弾か、太陽か、その下でいななく馬、大きな意味を含んでいるのであろう牛。

 『ゲルニカ』についてはさまざまな解釈がある。

 それについては、ピカソ自身、はぐらかすかのようにこう言っている。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。大衆、観客は、馬と牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」

 さらに、興味深いことを。

「絵というものは、事前に考え抜かれて定着されるものではない。制作の途中で、思想が変化するように絵も変化する。
 そして描きあげられた後でも、それを見る人の心の状態にしたがって変化し続ける。
 絵というものは、日々生活によって私たちに課されるような変化を経験しながら、生き物のように生涯を生きる。
 絵はそれを見る人の目を通してのみ生きるのであるから、これは全く当然のことだ」

■芸術と政治の関係■

 この時期のピカソは、政治と関わることにたいへんな熱をもっていた。1937年の5月頃、こんな言葉を残している。

「スペイン戦争は人民と自由に対して反動勢力が起こした戦いである。
 私の全生涯は反動と芸術の死に対する絶えざる戦いそのものだった。
 反乱が始まった時、人民によって法に則して選出された共和国政府は私をプラド美術館館長に任命し、私は即座にそれを受諾した。 
 私が今制作中で『ゲルニカ』と名づけるであろう壁画や最近の全作品においてスペインを苦悩と死の大海に沈めた集団に対する私の憎悪を表明している」

 また、少し後の1945年には、次のような言葉を。

「他人に興味を感じないとか、君たちにあれほど豊かなものをもたらしてくれる人生そのものから離れて、冷たく無関心でいるなど、どうしてできようか。絵画は部屋を飾るために描かれるのではない。それは攻撃と敵に対する防衛のための戦いの武器である」

(私はこのピカソの考えに100%の賛同はできない)

■ひとびとの反応■

 当時の反応はどうだったのか。
 スペイン館の設計者セルトは次のように回想している。

「人々はスペイン館にやってきた。彼らはこの作品を見たが、それを理解できなかった。多くの人はそれが何を意味するのか、わからなかった。しかし、彼らはそこに何かがあることを感じた。『ゲルニカ』を見て笑わなかった。黙ってじっと見ていた。私は彼らが通り過ぎるのを見守った」

 また、ある画家は次のような文章を残している。

「あるプチ・ブル女性が私のテーブルを通り過ぎた。彼女はスペイン戦争の写真展示のある二階から降りてきた。写真では子どもたちがキリスト教徒やフランコのムーア人外人部隊によって虐殺されていた。女性は自分の娘に言った。
『なんとまあ、恐ろしい! 蜘蛛が首筋をはいおりたみたいに、背中がぞくぞくするわ』
 彼女は『ゲルニカ』を見て子どもに言った。
 『あれが何を表しているのかは分からないわ。けれど、気持ちがひきしまります。変だけど、あれを見ると八つ裂きにされるような気がするの。さあ行きましょう。戦争は恐ろしいわ、たいへんなスペイン!』
 それから彼女は子どもの手を引っ張って、不安げに群集の中に姿を消した」

■ゲルニカの「亡命」■

 万博は無事終了し、『ゲルニカ』はイギリスを巡回した後、アメリカへ「亡命」した。

 その後の何年間かは、モダン・アートの名作としての評価をうけ、とくに第二次世界大戦終了後は完全に政治の文脈からは切り離された扱いを受けていた。

 しかし、1960年に入って、ヴェトナム戦争をめぐる諸々の事件に代表される激動が、再び、『ゲルニカ』を歴史の中から呼び起こし、平和や民主主義のシンボルとして復活させてゆく。

■ヴェトナム戦争とゲルニカ■

 アメリカにおける、ヴェトナムに対する反戦運動の高まりとともに、『ゲルニカ』撤去運動が起こった。

 最も盛り上がったのは、1966年3月、ソンミ村虐殺事件が起こった時だった。
(*アメリカ歩兵部隊にが、中部ヴェトナムのソンミ村で非武装の村民数百人を殺し、農家をダイナマイトで爆破した上、焼き払った事件)
 この事件に鑑みて、「この(アメリカ)国民も、この(ニューヨーク近代)美術館も、罪のない人々の虐殺に反対するこのモニュメンタルな叫びを保護し、手元に置く権利をもはや持たない」として、『ゲルニカ』の撤去をピカソに促す公開状が送られたのだ。

 1970年3月13日、アメリカの美術家、著作家265名が署名した。

「われわれは、未来を前にして沈黙を続けるわけにはいかない。
 あなたの援助をお願いします。アメリカ軍がヴェトナムで皆殺し(ジェノサイド)を犯すかぎりは、『ゲルニカ』を公衆の面前におくことはできないと、NY近代美術館の管理者たちと理事会に告げてください。
 未来を前にして沈黙を続ける人々から、あなたの絵の守護者としての道徳的信託を取り去ることによって、『ゲルニカ』の叫びを新しいものにしてください。
 アメリカの美術家や美術学生は『ゲルニカ』を失うことになるでしょうが、しかし、そのことによって、あなたが30年前に与えたメッセージが再び甦るのだということも知ることでしょう」

■ゲルニカの帰還■

 ピカソはこの公開状に直接答えることはしなかった。
 しかし、彼は『ゲルニカ』のNY滞在は、あくまでも一時的な「亡命」で、最終的にはスペインに「帰還」すべきだと考えていた。

 フランコのスペイン政府からも、たびたび『ゲルニカ』返還の要請があったが、ピカソは「スペインに公共の自由が確立したときに」と条件をつけている。
 つまり、「フランコのスペイン」に『ゲルニカ』が帰還することはありえないということである。

 1973年にピカソが亡くなり(91歳)、その2年後、フランコも世を去った。そのあとアルフォンソ13世の孫にあたるフォン・カルロスが国王となり、スペインは君主制の国となった。諸々の民主的改革がなされ、スペインは生まれ変わった。

『ゲルニカ』は、1981年10月24日、はじめてスペインの大衆の前にその姿を現した。テロを警戒して防弾ガラスの中ではあったが、彼らはいったいどんな想いでこの絵を見たことだろう。

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