★絶筆美術館:はじめに
2020/08/26
「絶筆美術館」
■はじめに■
私が死ぬときに、最後に口にするのは誰の名前なのだろう。
何を想うのだろう。
あのひとの場合はどうなのだろう。
私が愛する人たちの場合はどうなのだろう。
そんなことを日常的に考えるようになったのはいつ頃なのか、はっきりとはわからないけれど、いつもそんなことを考えているような気がする。
誰かの人生について書くときにも、もっとも気になるのは、彼らの人生が栄光に満ちていたときではなく、死ぬときだ。
自分がその人生で見たもの感じたものを、自分だけのやり方描き方で表現することに命をかけた画家が、最後に何を描いたのか。
自分がこの世に生きた、存在したという証を絵という手段で残そうとした画家が、最後に何を描いたのか。
それを知りたい。
彼らは自らの死をいったいどんな思いでむかえたのか、受け入れたのか、そんなことも知りたい。
いつか書きたいとずっと思ってきた。好きな画家たちの最後のことを。
彼らのラストメッセージ、あるいは遺言、最後の作品、そう「絶筆」について、書きたいと思ってきた。
五十歳を超えてようやく時期を得た。
「絶筆」をテーマに書く、と決めたとき、まず考えなければならなかったのは、絶筆とはいったい何をいうのだろう、ということだった。
絶筆=最後の作品。わかっている。しかし、最後の作品というのはいったい、何をして最後の作品と言うのだろう。
たとえば私が死を覚悟して長編小説を、文字通り命がけで書いたとする。これが自分の最後の作品、と納得したとする。
それから少しして、何かの本を読んでいて面白い表現をみつけて、気が向いて、たとえば自分のブログに、そのことをテーマに小文を書いたとする。その直後死んだとする。
私の絶筆は小説なのか、それともブログに綴った小文なのか、そういう問題だ。
やはり芸術的絶筆は長編小説で、事実としての絶筆はブログの文章なのだろうか。
もし自分で決められるなら、絶筆は芸術的絶筆でありたい、と思う。
だから、死んだときイーゼルにあった描きかけのデッサン、なども胸うたれることはあるけれど、本書で扱うのはあくまでも芸術的絶筆にしたい。
それが、私がこれから物語ろうとしている愛しい画家たちへの礼儀のようにも思える。
画家は死を意識したとき、あるいは無意識に死がせまっているそのとき、いったいキャンバスにどんな色彩をのせ、絵筆を走らせたのか。最期に選んだテーマはいったい何だったのか。何を見、何を描いたのか。
画家の内面がわかるはずがない。さまざまな人がさまざまなことを言っていて何が真実なのかなんてわからない。
そもそも万人に共通の真実などはないのだろう。事実はひとつかもしれない、けれど真実は、それぞれの人の数だけある。
私は、私の胸をうち、苦しいときをすくい、潤してくれる作品を遺してくれた画家たちの最後の姿と最後の作品に真剣に、自分をごまかすことなく対峙することによって、私が感じとった真実を、ここに書いた。
何度も涙した。何度もともに苦しんだ。人生の不条理に憤った。
彼らの「最後のとき」とともに過ごした時間は、けっして「愉快な時間」ではなかったけれど、かくじつに「生きる」ということ、私はどのように生きるのかということ、そう、「生」を考えることに通じていた。
書く前にうっすらと胸にあった予感は当たっていた。
画家の絶筆には、画家の人生があった。