★絶筆美術館8:ピカソ『自画像』
老いと性には以前からずっと関心をもってきた。
人間の三大欲求のひとつと言われる性欲は、年齢とともにどのようになるのだろう。
老いて、いろんなことがよくわからなくなった人が、性に関することだけには興味を示す、なんていう話を聞くたびに、やはり性には人間の根源的なものがあるのだ、と確信し、そんなとき、いつもピカソを想った。
死に近づいてゆくピカソが没頭したのは性への愛惜だったからだ。
八十四歳で前立腺の手術を受け、性的に不能になった。
性的不能って、八十四歳なのだからもう関係ないじゃない、というのはピカソ以外の人のための言葉だ。
もちろんその能力はかなり衰えてはいたが、若いころからずっと精力を誇っていたピカソは必死で性にしがみついていた。耳も遠くなり、視力も弱り、大好きな煙草ゴロワーズもやめていたけれど、そんなこと、性が完全になくなることからすれば、大したことではなかった。
この時期のピカソの言葉で印象的なのがある。長年の友人の写真家ブラッサイに言ったことだ。
「きみに会うたびに、ついポケットに手を入れて煙草をすすめたくなるよ。もう二人とも禁煙していることは承知しているんだがね。年をとると諦めるしかないが、欲望は残っているんだな。セックスと同じだ、もう実行することはないが、欲望は残っているんだよ」
命ともいえる男性機能を失った画家は、八十七歳で347シリーズを、九十一歳(死んだ年だ)で157シリーズと呼ばれる銅版画を制作した。憑かれたように、という形容がぴったりだ。数字は枚数を意味する。
ありえないほどに驚異的な猛然たる創作だった。永遠のテーマのひとつである「画家とモデル」のシリーズも描いた。どこにもかしこにも、もうそこらじゅうに、現実では不可能となった性への執着があふれていた。
それほどまでに、晩年、性に執着した作品ばかり描いていたピカソが最後に描いたもの、絶筆は、自画像だった。もちろん、「いかにも自画像」っぽくはなくても、ピカソは自画像の画家だから、作品で自分の人生を記録してきた画家だから、そんなに驚くことではないのだろう。
けれど、私にはとても意外だった。