★西洋絵画のスーパーモデル:9(最終回)「マグダラのマリア」
2025/11/22
*最終回です。またひとつの連載をここに残すことができました。
「路子倶楽部」会員のみなさまのおかげです。ありがとうございます。
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■純粋にキリストを敬愛したマリア。聖人か罪人かは、あなたの心が決めること■
なんともエロティックな絵だと思う。
全裸を少しでも隠そうと長い金髪をかき合わせる。それでも露わになる豊かな乳房。彼女は天に向かい、何を祈るのか……。
気ままに楽しくやらせていただいた連載の最終回は「マグダラのマリア」。
マグダラの……。
ああ、と私はため息をつく。たいしたことではない。ただ「マグダラのマリア」は私にとってちょっとひっかかる存在なのである。
あれはもう一年以上前のことだ。
「彼」がウイスキーのグラスをカラカラと鳴らしながら「あなたはマグダラのマリアだ」と唐突に言ったのは。
「彼」はすこし酔っていて私もそうだった。仕事で「聖人」について調べているときで、「彼」はそのパートナーだった。
悔しいことに私は「彼」が打ちこんできたボールをうまく返すことができなかった。
なぜなら、自分を見透かされたような想いと、まるで見当違いのことを言われたという想いが複雑に交錯していたからだ。
マグダラのマリアといえば、聖書に登場する聖女のなかでもナンバーワンの人気を誇る人物。
が、そのとき私の頭のなかをぐるぐるとめぐったのは、次のようなイメージだった。
悪魔にとりつかれた女、贅沢の味が忘れられずに娼婦に身を落とした女、キリストに出会って悔い改め、それからはぼろぼろになって苦行した女。
てっとり早く言えば、同名の聖母マリアと比べてずいぶんダークなイメージなのだ。
が、一方ではキリストの足に香油を注いだり(絵の左下にあるのは彼女の象徴、香油の小壺)、ラザロの蘇生を見たり、また、復活したキリストをはじめて認めるなど、かなりの重要人物であったりする。
こういった伝説を複数もつという意味で、「マグダラ人気」があり、当然画家たちも魅せられたのだろう。
この激情的な絵を一枚観ても、いかに彼女がイメージをかきたてる存在であったのかわかる。
……が、私にとっては、「彼」がどんな意味で例の発言をしたのかが重要だった。
いろいろ深読みをし、こんなことまで思い出した。
何年か前に公開された映画『最後の誘惑』。その「冒涜的」な内容に、ローマ法王がカンカンに怒ったというエピソードつきのこの映画で、たしかマグダラのマリアがキリストをその女体で誘惑する役で登場するのだ。
ということは、「彼」は私に誘惑してほしいとか? まさかね。
帰るころついに、「彼」に意味を尋ねたが教えてくれなかった。
謎は深まるばかりで、いまになっても「彼」が私に何を言いたくて「マグダラ発言」をしたのかわからない。
まあ、いいわ、と思おう。私はそういう含み発言をしてひとり悦に入る男は嫌いだ。
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と、結局は1人の男の悪口で終わる個人的な話題となってしまうのだが、これが私と絵画のつきあい方。この連載をずっと読んでくださっている方はご存知だと思うけれど。
基本的に、絵に説明はいらない。好きか嫌いか。感じるか感じないか。それでいいと思う。
絵は描いた画家の手を離れた瞬間に観るものの感性へ委ねられる。つまり、その絵をどう観ようと、どう感じようと、そのひと個人の自由なのだ。
そして、一枚の絵に何かを感じ、その絵との間に関係性が生まれたとき、ひとの心は豊かになる。
だから、求め続けてほしい。
自分の肌に合ったお気に入りの化粧品を探すように、あなたの心を美しくメイクする絵を。
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◆「マグダラのマリア」伝説◆
多くの伝説をもつマグダラのマリア、おおまかなところは本文でふれたので、ここでは有名なエピソードを。
*ある家で食事中のキリストのもとへ、罪の意識に苦しむ女が来て、その涙でキリストの足を濡らしてしまう。彼女はそれを自分の髪で拭い、高価な香油をキリストの足に塗った。キリストは言った。「あなたの罪は許されている。多くを愛したゆえに」
*墓のある園でひとり泣く女がふと振り向くと、男が立っていた。女は男にキリストの亡骸の行方を尋ねる。男は言う。「マリアよ」。女はキリストが復活したことを悟り、駆け寄る。キリストは言う。「私に触れてはいけない」。(このシーンも、多くの画家が描いている)。
ともにマグダラのマリアの有名なエピソード。
*絵のタイトル「懺悔するマグダラのマリア」
*画家:ティッツィアーノ(1485頃-1576)
ヴェネチア派最大の巨匠といわれる。貴族をはじめ、ローマ法王やスペイン国王らがすすんでパトロンとなり、彼の芸術活動を支えた。晩年は視力も弱まり、自由に絵筆をふるえなくなったが、それでも「ティッツィアーノの仕上げの一筆は、ほかのどの画家よりも優れている」と高く評価されていた。
◆現在の感想◆
私はマグダラのマリアが大好きです。いま、あのときの「彼」に言いたいです。ありがとう、嬉しいわん、って。
そしてマグダラのマリアみたいに言われたい。「あなたの罪は許されている。多くを愛したゆえに」って。信仰の強みはここにありますね。それを、誰に言われるか、ってこと。私は信仰をもたないから、自分教のかみさまである「私」に言ってもらうしかないのでした。
