◎Tango ブログ「言葉美術館」

■タンゴとノスタルジアとアミティエ・アムルーズ、ロス・マレアドス

 

 タンゴには私にとって、生きることそのものとふかくつながる何かがある。

 それを、いま書いているタンゴの小説のなかで表現できたらと願っているのだが、この小説、『女神』を出版してから10年が経ってようやく書こうと思えて、いま書かなければと思って私はとつぜんのひとり旅、バンコクへ行ったのだった。正確にいえばバンコクのホテルに自ら籠もったのだった。2019年の6月。

 もうあれから2年が経とうとしているけれど、まだ完成しない。路子倶楽部会員限定コンテンツとして連載をはじめて1年以上が経つのに完成しない。それでも進んではいる。ようやく主人公たちが今後どうしたいのかもわかってきた。

 小説は、伝記っぽい本や言葉の本などを書くときとまるで違う何かが必要。そんなつもりはなかったのに朝起きてそのままベッドでパソコン広げて没頭するときも、ほんの稀にだけど、ある。

 今週の月曜日もそうだった。そんな稀なことが起こって、小説の物語が進んだ。

 

 コロナ禍と、それに続く引越し、自宅の階下にスタジオがあるという状況がなくなって、私のタンゴライフは激変した。

 それでも私とタンゴの関係は切れない。タンゴを一曲も聴かない日はほとんどない。なんらかの事情でタンゴを聴くと胸がちぎれて流血の惨事になりそうな日を除いて。

 

 タンゴを踊っていると、なにかがおりてきて、私の血管をかけめぐり、血管からさらに溢れ出して、全身をめぐり、未知のエネルギーに満たされるときがある。そんなときの私は、あとから考えてみるとふだんの私とは思えない、隠してばかりいる、外側の世界用の私に内なる私が勝利したみたいな、ちがうかな、なんていうんだろう……あのときの感覚にも似ているかな、そんなふうになっているのだと思う。

 この、エネルギーに満たされる感覚は、とつぜん小説を書き始めるときの感覚と似ている。小説を書くときはそのエネルギーを、書くことで放出し、タンゴを踊るときは、踊りで放出する。

 小説とタンゴで異なることは、小説はひとりで書くけれど、タンゴはひとりではないということだ。

 

 すべて完璧だ、なにひとつとして欠けていない、というようなタンゴを踊れるのは、かなり稀だ。

 たとえば、その日、たまたまタンゴの小説に没頭したことによって強烈なイメージに支配されているとか、踊る相手に対するなんらかの強い気持ち(好意、興味、欲望、わだかまり、いろんな種類のうちのどれか)があるとか、自分という人間に対する絶望をいだいているとか、あとは体調もあるかな、そういうのがその日そのときの私のタンゴをつくる。

 そして、あらゆる条件がそろったとき、忘れがたいタンダ(たいてい3〜4曲)がうまれる。

 

 メイ・サートンの『独り居の日記』には、そのまま私のタンゴに通ずるような箇所がいくつもある。当然といえば当然。彼女の生き方考え方に私は共鳴していて、私にとってタンゴは人生があらわれるものであるのだから。

 たとえばこんな箇所。一部、難解(←私が)なところは意訳。

 ノスタルジアについて、サートンはこんなふうに言う。

 

 「ノスタルジアは、フランス人がアミティエ・アムルーズamitié amoureuseと呼ぶ感情によって、その世界にひきいられたいという憧れからくる。」

 

 この場合のノスタルジア、郷愁と訳されるこの言葉は、たんに時間や場所への懐かしさだけではなく、こころにおしよせる懐かしさ、みたいな感情だと思う。

 その意味でいえば、私はいつも恋におちるとき、そのひとに懐かしさをいだく。ノスタルジアを。

 さて、つぎ。

 アミティエ・アムルーズって、そのままの意味だと友情恋愛。

 サートンの日記の訳者武田尚子さんは「情をふくんだ友誼」と訳している。

 ちょっと調べてみた。フランスの文学者であり政治家でもあるアンドレ・マルローが好んで使っていたみたい。

 フランス語をよく知る美しいひとたちは、

 「恋人っぽい友だち」(加藤登紀子さん)

 「恋に近い友情」(岸恵子さん)

 と訳しておいで。

 翻訳はたいせつ。私は武田尚子さんの「情をふくんだ友誼」って好き。この場合の「情」には恋や愛欲ふくめたい。

 私ならこうかな。「かぎりなく恋愛に近い友情」。

 だから、私が「ノスタルジア」を感じて、友人となったひとには男でも女もある種の恋愛感情に近いものをいだいているし、本気で恋愛関係にあるひと、あったひとには友情も同時にいだいている。だから決定的に決別することはほとんど、ない。

 ここ、私にしてはめずらしく矛盾がない。

 そして「ノスタルジア」、「アミティエ・アムール」、これらから私は、私のタンゴを想ったということ。

 だから続くサートンの文章にも、わかる、とうなずいた。

「それは、最初から、情事としてはけっして実現されないとわかったうえでの吸引力であり、さらにお互いが何も言わなくても、ふたりの感情に強い響き合いがある。

それは、かなしみ、あるいは放棄、あきらめのような空気のなかにある芳しい香り。生命感(ライフ・エンハンシング)と表現したい雰囲気だ。

こういった関係は魂ととても近いところに存在し、それは友情を、情事をふくまないけれどやさしく、啓示に満ちたものにするだろう。」

 かなりの私訳になってしまった。

 

 タンゴはそれ自体はけっして情事ではない。実現されることのない情事、と言ってもいい。そしてふたりの感情に強い響き合いがある。生命感、魂と近いところにある。

 私のタンゴがここにある。

 一方で、私のタンゴはこれだけでもないのだ。

 ふたたび、サートンに助けてもらう。

「私が自分の人生に人を招き入れるのは、もっとも深いレベルで彼らが私に、そして私も彼らに挑戦するからだ。」

 ここにも、タンゴを感じる。

 招き入れる、というところで、立ち止まり考える。

 そして。

 深いところで、ふたりが戦いを挑む、ということ。

 そんなタンゴを踊りたい、と願う。

 

 いま、流れているのはプグリエーセの「los Mareados ロス・マレアドス(酔いどれたち)」

  mareadoってめまいがする、ってときにも使われるみたいだから、ぐでんぐでんに、くるくる酔っているような状態かな、ほろ酔いじゃなくて。

 さいきん、ひとりで酔ってばかりだからかな、すごく胸にしみる。

 ↓この動画、最初の2秒、プグリエーセのピアノに私はなりたい。

 

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